先日歩いた「小川路峠に登ってみよう」の最終回です。
過去の記事↓
「小川路峠を登ったんな①~分岐から汗馬沢~」
http://ameblo.jp/take0028/entry-10373205427.html
「小川路峠を登ったんな②~汗馬沢から火ふり場~」
http://ameblo.jp/take0028/entry-10374878698.html
「小川路峠を登ったんな③~火ふり場から小川路峠と反射板~
http://ameblo.jp/take0028/entry-10377508378.html
小腹を満たす程度の昼食を食べると、標高が高いせいか登りでかいた汗が冷たく感じてきました。名残惜しいですが元来た道を引き返さねば。
反射板のある尾根から降りると、今登ってきた参加者とこれから降りようとする参加者らが混在していました。
皆思い思いに楽しんでこられたようです。
小川路峠は飯田から上村へ、上村から飯田へと抜ける道。上村側へ下る道が続いています。
「ああ、このまま上村側に下っていきたい」それが偽らざる本心でした。あくまで今回のイベントは峠に「登ってみよう」であって、「越えてみよう」ではありません。
分岐の奥に駐車していた車に戻らねば、家に帰る術はないのです。
しかし判っていても‥
下ってみたい。
峠を越えて上村に出て、本道の秋葉街道に出てみたい。
戻るのは引き返すようで、心残りでした。
意を決して回れ右、さあ下ろうと思ったとき
視界に緑色の物体(左下)。
黄色や茶色の落ち葉に埋まる中に明らかに人工色。
近寄ってみると、昔なつかしいデザインの「スプライト」の缶。このデザインいったいいつの物??しかも缶は錆がでているのでスチール製です。
いつの時代でも何処であろうと、ゴミを捨てる者がおる。デザインから昭和50年代ではなかろうかと思われます。
「捨てた缶 時代を経ても 土には還らず」
『懐かしい』と思わずに、『恥ずかしい』と思わねば‥
下りは来た時のことを思い出しながら下っていきますが、登る際には気づかぬことも。
先日の台風18号の爪あとでしょうか?大きな木が途中から折れています。これが公園や街路であれば大騒ぎですが、自然の中では日常茶飯事のなのでしょうね。
折れた木は徐々に朽ちていき、土に還る。そして次の木々の肥料となる。
同じように、道行く人々を見守ってこられたであろう観音様。登ってくる際に確認できなかった十八番観音があると示された場所。
もう一度良く見ると、松の根元に葉に隠れるように四角い台座のみ残っています。無かった数箇所と同じように谷間に落ちていったのでしょうか?あと気づいたのは、手前に転がる朽ちかけた木。
よく見てみると、どうやら元は十八番観音を示していた標柱のようです。(表面の金属板は抜け落ち、馬の背の喬木側の谷間の取りにいけそうにないずっと下に落ちていました)
用途はわかりませんが、当時の輸送手段が馬であったことを考えると、雨水などを溜めた馬専用の水のみ場ではなかったのではないでしょうか?
造った当時はこの道が時折しか人が通らなくなる道になろうとは、馬が輸送手段でなくなろうとは全く思わなかったのでしょうね。
登る際には気づかなかったもう一つの水準点も見つけました。国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス
」にて確認すると‥三等水準点「神馬沢 緯度35°26′09.1419 経度137°55′43.0021 標高1271.68」とありました。
しかしこの水準点、先ほどの四等水準点と違って周囲に保護する石が配置されていません。(もしかしたらこちらが四級?)このままでは周囲の土が侵食されて動いたり倒れたりする危険が‥水準点が動いては精度に誤差が出ます。
この自然の中では人間の存在は小さく、謙虚であるはず。しかし人間という生物は、自身の生活のため自然の理(ことわり)に逆らって自然に大きな負荷をかけ続けています。
今触れてきた「崩れた」「折れた」「無くなった」‥それは人間の一方的な見方。
自然にとっては、大地いや地球にとっては生物が生まれる前の太古の昔から繰り返されてきた「自然現象」。この山も谷も気の遠くなるような長年にわたる地殻の変動や風雨による侵食で形作られたもの。
この道には人間が歩いて生活してきた痕跡が残ってはいますが、確実に消えて自然に還ってゆく過程が見えます。
と、ここまで撮影したところで、デジカメの電池が切れました。
直後に頂上から歩行の記録を録り続けていた携帯電話の電池が切れました。
‥‥
‥
何事にも限りはあるのです。
永遠に存在する物などあろうはずはない。
いま目の前に存在しているもののほとんどは、100年も経てばきれいさっぱり無くなっている。
自分も家族も同じ。
「物に執着せず、今自分が何をするべきかするべきでないか、そして何を遺すのか」
短い旅でしたが、はっきりと意識させられる濃密な時間でした。
自身に驕りが感じられたり、迷いが生じたら再びこの道を踏みしめに来ます。
その前に、まずは峠を越えねば。また違う見方が生まれる気も。