思えば何故スワローズのファンになったのか‥

きっかけは「野村監督」だった。


小、中、高校と9年間慣れ親しんだ剣道から離れたのは、高校3年生の頃。

燃え尽きてはいないものの、暇を持て余し気味で何か夢中にさせるものを探していた時、ふと書店で手に取った本に記載されていたのが、野村克也という偉大な野球選手の記述。


戦後初の三冠王で選手兼任の監督も勤め、ささやき戦術や投手の分業制の確立、江夏投手をリリーバーとして見出した慧眼‥そして解任(しかも女がらみ)され一選手としての出直し。


選手としても監督としても数字をと結果を残した偉大な存在であると同時に、最後まで現役にこだわって野球を続けるなど人間臭い一面がある深みのある人物である事を知った。


丁度そのころ、セリーグで万年Bクラスに低迷していたのがスワローズ。クリーンアップには若き池山・広沢、そして本塁打王のパリッシュの大砲が並び、長島一茂などの若き有望な選手が揃っていた。

関根監督のもと、のびのび野球で選手個々の才能が開花しつつあったが、ジャイアンツの斉藤投手の前に難なくクリーンアップのバットは空を切り続けるなどいまいち勝利に結びつかず、歯がゆく思っていた。


そこへスワローズが当時評論家であった野村克也を監督に迎えようとしているという報道を聞いた。


才能豊かな選手らに野村さんの英知が加わればもしかしたら‥

そんな思いでスワロースを応援し始めた。


キャンプ時からその発言は面白く、開幕後には思い切った選手の起用にも驚かされた。当時の正捕手の秦選手を外野に、ルーキーの古田選手を正捕手に、控え捕手だった飯田選手をセカンドにと選手の適性にあわせた起用。再生工場と呼ばれる選手の適性の見極めとそれを生かす術。

「種をまき、水をやり、そして花を咲かせる」‥野村監督の教えは数年をかけ序々に浸透し、弱小スワローズは上昇。


そしてベテランと若手がかみ合ったスワローズは優勝をとげ、日本一に輝いた。


スワローズから野村監督は去っても、たぬきはスワローズファンであり続け現在に至っています。


野村監督は阪神、社会人のシダックスの監督を経て、楽天イーグルスをクライマックスシリーズに導きました。


たぬきに野球の面白さと奥深さを教えてくれ、スワローズファンになるきっかけをつくってくれた野村監督が、今日を最後に監督の仕事を辞められます。


しかし、

ご苦労様とはいいません。

齢七十余を超えても生き生きとされているのは「野球監督」として選手らに野球のなんたるかを教えてきたからこそと思っています。きっとそれを取ったらあっという間に老け込んでしまわれるに違いない。


それは野球界にとって大いに損失。

言い方は悪いですが、最後の最後まで搾り取るつもりで野村監督から様々な教えを頂きましょう!


たぬきの個人的な希望としては、楽天イーグルスの名誉監督などではなく、当時の弱小スワローズにも似た内川、村田、吉村らを擁しながら低迷する横浜の監督として、まさにグランドで息絶えるまで「野球監督」として頑張ってもらいたい‥それが望みです。