ノワール その57 | それからの成均館

それからの成均館

『成均館スキャンダル』の二次小説です。ブログ主はコロ応援隊隊員ですので多少の贔屓はご容赦下さいませ。

㊟成均館スキャンダルの登場人物による創作です。

  ご注意ください。

 

 

 景色がスローモーションのように後ろに流れる。背後から声がかかった。振り向くと見たことのある中年の男が立っていたので、警察、と一言言って前を向いた。落ち着け、落ち着け、走るな、急げ、走るな、追いつけ、急げ、走るな!景色は後ろに流れる。ジェシンはスラムのど真ん中を進むと、傾いた建物の角を曲がり、路地というにはゴミだらけの道の向こうにまた誰かが曲がって姿を消すのを捕えた。

 

 くせえ。

 

 微動だにしない眼球は前方を捕えたまま、鼻をつく饐えた匂いに呆れる冷静な自分に驚く。匂いと共に音がやけに大きく聴こえる気がした。自分の足が踏み抜く散らかった新聞だろう紙の乾いた音、崩れた家の残骸なのか何かが足元で割れる。どこを歩いてもじゃりじゃりと立つ音。目はその道のごみの中にくっきりとできた痕跡を見つけていた。数人の通った痕は筋を遺しており、一筋途切れなく続く何かを引きずっているような線が、ますますジェシンの心を冷やしていく。嗅覚も、聴覚も鋭敏になる。臭い。生臭い匂い。かき集めた材木で作ったのだろうバラックから聞こえるいびき。そして、下卑た笑い声が近づいてくる。

 

 曲がる瞬間一瞬足を止め、覗き込んだ。見えた。男が三人。二人が一人の人間の両脇を抱え込んで無理やり引きずり、一人がその持ち物だろうカバンを振り回しながら歩いていく。ジェシンの数歩先には、何度か見たことのある布の袋・・・ユニの筆入れが落ちていた。間違うことなどない。持ち物は全部と言っていいほど彼女の母親の手作りだ。唯一無二。カバンと同じズックの布で、中身がこぼれないように三か所ボタンを留められるようになっていた。そのふたにあたる部分の布がわざと柔らかい桃色で、右隅に小さな菫の花の刺繍。高校入学時に、今まで使っていたものをリメイクしてくれたのだと言っていたのは先日一緒に勉強したときだったか。

 

 ジェシンは突進した。ゆっくりと大股で助走し、ぐん、とスピードを上げたのは距離が近かったからだ。驚いたように振り向いた男たちは、思わず立ち止まった。一気に間を詰めたジェシンは、最期の一歩が土にめり込むのを感じながら足を振りぬいた。

 

 

 

 「・・・せ、先生っ!」

 

 飛び込んできた男に、医師はのんびりと、診察中~、と答えた。扉一枚向こうでも、ここ半年ほど聞き慣れたその声を間違えることはなかった。太ももに鶴嘴の先が突きささるという大けがを治療してからこの方、この男は時間ができると医院にやってきては前の道の掃除をしたり、がたのきたところ・・・扉の取っ手だったり、窓枠のがたつきだったり、なぜか足の長さがおかしくなっている机だったりの修繕をして回ってくれた。確かに治療代はだいぶおまけしてやりはしたが、それはいつものことで、男に限った事ではない。別にお金が要らないわけではない。薬剤を仕入れるお金はかかるし、看護婦一人の給料だって払わなければならないから稼がなければいけない。だが、ないところからとれないし、けれど目の前の病気やけがを放っては置けない。男にだって出世払いでいいよ、という事で別に払ってくれるなら貰う。けれど故郷の家族に仕送りをしているこの男が裕福ではないのは分かっているし、こうやって恩に着てちょくちょく手伝いをしてくれる分でチャラだね、と納得もしている。他にも、現金がないので、と野菜や魚なんかを持ってくる人もまだいる。だからこの男などちゃんと払う気があるだけそれが『体で払う』状態になっていてもましな方なのだ。というか、大工仕事が出来ない医師にとっては結構ありがたい存在だ。

 

 「・・・すんません!でも大変だぁ先生!」

 

 いつもなら開けない、裏口に続く小部屋の扉を開けた男に、咎めるような視線を向けたが、怒鳴った内容に、すぐに表情を変えた。

 

 「急患かい?」

 

 「違う!あの学生の坊主が!けいさつ、って!」

 

 「・・・がくせいのぼうず?」

 

 「あの・・・あの・・・ユニちゃんに惚れてる!」

 

 「ああ!ジェシン君かい?」

 

 「そう!坊主が今、俺の方を振り向いて、警察、って言って走っていった!」

 

 医師は傍で酷い湿疹のできた少年に軟膏を塗っていた看護婦の妻と目を合わせた。

 

 「あなた・・・ユニちゃんがさっき帰ったところよ・・・。」

 

 医師は立ち上がり、男を手招いて電話に走った。

 

 

 

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