”明治維新150年 西南戦争から141年。

 西郷どんの年。

 大分も激戦地だった…。”

 

こんばんは、本日は大分学研究会

大分の魅力を多方面から研究・考察し、情報発信する研究会です。

奇数月に例会(座学)、偶数月に魅力体験ツアー(現地学習)を行います。

今月は例会です。

(Cf:先月の魅力体験ツアー@宇佐にも参加。)

 

テーマは、「西郷どんと大分」。

今回は2本立て。

(1)「西南の役140周年・激戦地三重について」

(2)「増田宋太郎と中津隊について」

 

以下、講座の概要を簡単にご紹介いたしますm(__)m

 

(0)西南戦争について

まず講義前に、西南戦争について簡単にご紹介。

西南戦争は、明治10(1877)年に起こった、現時点で国内最後の内戦です。

この頃、明治新政府に対し、各地の士族が反乱をおこしました。

この西南戦争では、西郷隆盛を盟主とした薩摩の士族が反乱。

薩摩軍(西郷軍)VS官軍(政府軍)の構図です。

薩摩軍が熊本城(熊本鎮台という九州防御施設)を攻めた後、戦場は鹿児島・熊本・宮崎・大分と広がり、大規模に。

結果的に、官軍が勝利し、西郷どんは鹿児島城山の洞窟にて自害します。

 

▽激戦地となった、熊本市北区植木町の田原坂(肝心の坂の写真がない…(苦笑))。

 大学入学当時、この坂で肝試しをしたり(笑)、ぶらり一人旅をしたり♪

▽谷干城(たにたてき)

 当時の熊本鎮台の総司令官。

 NHK熊本放送局近くに銅像あり。

ここ、大分県でも激戦あり。

豊後大野市三重町では三重市や三国峠で激戦あり。

中津市では、西郷どんに触発され、兵を起こした青年もあり。

 

(1)「西南の役140周年・激戦地三重について」

・講師:川原 久芳氏(豊後大野市三重町史談会長)

今年、三重町史談会長に就任された川原氏。

個人的に、大分学やジオパーク活動で非常にお世話になっている地元の大先輩です☆

私の暮らす豊後大野市でも、過去に激戦がございました…。

▽激戦地三重町の地図

[1.史談会と三重町の紹介]

・史談会=16名で活動、年会費1.6万円。

・三重町…大宝律令体制時の三重の駅が長く残っていた。

  →日向・竹田への交通の要衝。

  →江戸期:大半が臼杵藩領に。    

    ⇒昔は、地形の起伏・川原が多い地形だった。

 

[2.西南戦争の目的]

・薩摩軍「いち早く東京へ行き、民の声を届けたい」

 →まずは、九州の中心である熊本鎮台(熊本城)を攻めた。

 →その後、様々なルートが思案された(長崎海軍を制す→近畿へ向かう、豊後・小倉ルートを制す、土佐を動かすなど)

 ⇒結果的に、宮崎方面へ戦が進み、最終的に延岡での戦いで薩摩軍解散(→鹿児島で西郷どん自害)。

・薩摩軍…海軍力を生かそうとした?(東京や大阪を目指した)、西郷どんを篤く信頼していた。

 

[3.西南戦争と豊後(いずれも明治10年。主な出来事のみ)]

・2月…薩摩軍側の中津隊発足(By.増田宋太郎)

・3月…府内城に薩摩軍が攻めるとの情報あるも、薩摩軍は来ず、兵を解いた。

・4月…増田率いる中津隊が府内城を攻める→官軍が撃退。

・5月…重岡、小野市、竹田、三重市(後述)を薩摩軍が攻める。

・6/1…鶴崎にいた管軍東京隊を薩摩軍が襲う。

・6/14-17…三国峠の戦い(後述)

 

[4.三重市の戦い(いずれも明治10年)]

・現在の三重町市場6区あたりで激戦

 →大野竹田バス営業所近くに激戦之地碑、大原のつつじ公園には慰霊碑がある。

・5/12…薩摩軍「大分へ明日向かうので、湯茶でもてなしてほしい」と通達を出す。

     (↑実際は、竹田へ向かうためのデマであったとされる。)

・その後、三重にある軍用所に徴収に来たが、役人は逃げており不在だった

 →民家を訪ね、強制徴収させた。

 →三重住民は、戦々恐々としていた…。

 ⇒三重都長&犬飼都長が大分県庁を訪ね、薩摩軍からの警備を懇願。

  →この時、官軍が竹田方面を警備すると知り、安堵。

  →のちに三重の正龍寺に官軍が入り、この地域を警備。

 ⇒But、官軍「三重は警備に不敵な地域。東の深野地域に赴く」と三重都長に告げた。

  ⇒警備が薄くなったその際に、なんと薩摩軍が三重市を進行。

   →理由:薩摩軍「竹田で手柄なし…⇒三重で手柄を立てたい」と思っていた、裏で薩軍に加担する官軍の姿(スパイ・裏切り)があった?

 

[5.三国峠の戦い(いずれも明治12年)]

・岡藩&佐伯藩&臼杵藩の三藩の境であった、標高の高い三国峠でも激戦あり。

・もともと薩軍は、臼杵へ向かいたかった。

 →But、官軍が軍艦で臼杵に攻めてきた⇒三国峠が戦場になった。

・6/12…薩摩軍:切畑峠→鷲谷→三重へ戻ろうとした。

  ←→官軍:薩摩軍対策として戦夫をたくさん用意。

    ⇒薩摩軍:三重入りをあきらめた。

・6/13…薩摩軍:切畑峠→三国峠とルート変更し、土塁などを築いて応戦準備。

・6/14-17…三国峠で激しい撃ち合い→本戦へ

 

 

 

(2)「増田宋太郎と中津隊について」

・講師:安倍 恭一氏(中津の郷土を語る会)

今年1月の競秀峰と諭吉について、熱く楽しく語っていただいた安倍氏が、今後は29歳の若者:増田宋太郎について熱く語ります!

[1.増田宋太郎とは(概論)]

・西郷隆盛に魅せられ、西南戦争時に中津隊を結成し、官軍と戦った。わずか29歳で死去。

・嘉永2(1849)年…中津市弓町生まれ。中津藩下級武士の父&福岡県吉富町の宮司系の母に育つ。

・福澤諭吉とはまたいとこで、10歳くらい年上のお兄さんとして親しみがあった。

 →当初は諭吉の西洋かぶれを嫌っていたが、のちに西洋学問が大切だと転換。

・明治9(1876)年…中津の地方紙『田舎新聞』の初代編集長。

 →全国でもかなり早い創設の新聞。ジャーナリストとして、自信の思想を伝えた。

・明治10(1877)年…西南戦争にて、官軍の夜襲を受け戦死。

▽増田宋太郎。…イケメン☆(笑)

▽顕彰碑

[2.増田宋太郎の人生・人となり]

・文久2(1862):14歳

  ・国学塾「道生館」(従兄弟の渡辺重石丸が開塾)で学んでいた宋太郎はあまりにも秀才

   →「道生館の神童」と呼ばれた。

・明治2(1869):21歳

  ・結婚with中津藩剣術一刀流師範の長女:鹿→増田家の家督を継ぐ。

  ・「もっと学びたい!」と思い、京都皇学所へ行くも、前年に廃校→東京へ学びに行く。

  ・福澤諭吉暗殺計画も失敗に終わる(西洋かぶれの諭吉を痛烈批判)

  ・中津で勉学し、弁護士免許を取得。

  ・後藤純平農民一揆で檄文を書く→懲役10年の刑出獄。

・明治4(1871):24歳

  ・「皇学校」を中津城三の丸に建設→勤王思想を教える

    ⇒翌年、旧中津藩校「進脩館」と合併し、「第36番中学」となる。

・明治7(1874):26歳

  ・佐賀の乱平定に向かうも、間に合わずに引き返す。

  ・西郷隆盛「私学校」開設

   ⇒宋太郎も同士と一緒に政治結社「共憂社」結成。

   ⇒土佐で自由民権結社「立志社」結成(結成にあたり、中津と交流もあった)

   ⇒宋太郎の盟友も大阪で「明治義塾」開設。

    ⇒政治力も蓄え始めた宋太郎 

   ・諭吉の文明開化思想に対し、「諭吉と会って話を聞きたい。慶応義塾で洋学を学びたい」と主張

     ⇒学びを重ね、西洋文化にも興味を持つように。

・明治9(1876):28歳

  ・大分県初の田舎新聞創刊→ジャーナリズムへ。

・明治10(1877):29歳

  ・西南戦争発生を知り、闇無浜神社近くで中津隊決起

   →中津城へ入る(中津城には中津隊結成の碑がある。) 

   →「敷砂の袖に露けき垂乳根の母に別れのあかつきの空」、「樫の実のひとりの母を国のため起きて出で立つ我ぞ悲しき」など詠む。

    →「父の恩は山よりも高し、母の恩は海よりも深し」という宋太郎の心情が偲ばれる。

  ・大分県庁を攻めるも、失敗に終わる

   →熊本への最短距離(日田ルート)を通らなかったのは、そのルートが警備が厳しかったため。

     警備の間隙を縫い、府内迂回ルートを選んだとされる。

・福澤諭吉…西郷も宋太郎も、「反骨精神による決起を評価する」と、その意思を認めていた。

 

 

…と、以上です。

ほとんど時系列での紹介、失礼いたします。

 

 

激戦地三重町について。

三重町や三国峠が西南戦争激戦地であることは承知しておりました。

ただ、詳しい状況は恥ずかしながらしませんでした…。

正直、三国峠や激戦地の碑は、心霊スポットという認識でした(苦笑)

ただ、今回初めて、地元でどのような激戦があったのかを学ぶことが出来ました。

薩摩軍と官軍との間に挟まれた住民の心境…さぞ辛かったでしょう。。。

情報合戦もあり、争いはどろどろしたもので嫌ですね…。

西郷どんの強い意志が、ここまで大きな影響を及ぼすのですね。

地元で起こった歴史を知ることは、新しい発見がありますね。

「温故知新」、「賢者は歴史から学ぶ」…大事ですね!

 

増田宋太郎と中津隊について。

こちらも恥ずかしながら、今回初めて知った人物です。

同じ県内の人物を知ることも大切ですね!

若いころから、学を重ね、諭吉などたくさんの思想家との交流もあり、西郷どんという目標の人物の存在もあり、少しずつ自分の思想や意志を固め広めていく成長ストーリーを感じました☆

私より若かった宋太郎。

行動力もすごいですし、たくさんの学や出会いを大切にされているなと。

そこから、自分の考え方などをしっかり築いている姿は、現代の若者への教訓・警鐘となるかもしれませんね。

若いうちからたくさんの体験が大切だと、個人的に感じました。

 

2名の先生方、ありがとうございましたm(__)m

 

 

さて、来月の大分学研究会は、魅力体験ツアーは、この西南戦争の跡地を巡る旅です!

宮崎県延岡市や豊後大野市の激戦地を訪ね、西南戦争を学びます!

10月28日(日)開催です!

詳細・申し込みは、大分学研究会HPにて!

(※あいにく私は先約のため欠席です…興味ありですが。。。(苦笑))

 

以上です。最後までご覧いただきありがとうございましたm(__)m

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