(本好きな)かめのあゆみ -54ページ目

(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

  からんからん。ひとりの女性が入ってきた。

 この土地では見慣れない洗練された装い。上品で美形。さらに知性的な趣を漂わせている。店主に親しげに声をかけながら、その女性はカウンターの席に着いた。

 店主はあいかわらず疲れた表情のまま、彼女に水とおしぼりを手渡す。彼女は受け取ったコップの水を一息に飲み干して、おしぼりを手にとった。握ったまましばらくじっとしている。遠目にも、熱いおしぼりを快適に感じているのがわかる。上品でありながら奔放なその感情の表出に好感を抱きつつ、彼女をそれとなく眺める。彼女はこの喫茶店の常連客なのだろうか。

 店主となにやら話し込んでいる。ときおり微かに笑いあいながら、ときおり深刻そうにうなずきあいながら。ふたりの声はこちらまでは聞こえない。

 女性は隣の椅子に置いていた自分のバッグから、大きめの茶封筒を取り出すと店主に手渡した。店主は中身をちらりとみて店の奥に入っていった。

 ここまでの様子を、本を読むふりをしながら観察していたのだが、突然、彼女がこちらに振り向いてにっこりと微笑んだ。不意をつかれてうまく反応できない。どぎまぎしていると彼女がこう言った。

「あなたはここで何をしているの?」

 とっさには意味がわからなかった。あわてて思考をめぐらしている気配が伝わらないよう、なんとか落ち着いた表情をつくりだす。しかしことばは出てこない。彼女は続けて言う。

「すぐにこの店を出た方がいいわよ」

  などと、ありきたりの妄想を膨らませていると、香ばしいかおりのホットコーヒーと、あめ色にやかれたトーストが運ばれてきた。ゆで卵も添えられている。

 コーヒーカップにくちびるをつけると、その苦さで頭が醒める。砂糖を入れるかどうか迷ったが入れないことにした。ミルクは入れる。黒色から茶色に変わる熱い液体。トーストをかじる。ゆで卵の殻を割る。

 さて、これからどうしたものか。思案しているふりをして、実はもう電車に乗らないことは決めている。しばらくこの喫茶店でなんということもなく時間を費やすことにしよう。読みかけの本を鞄から取り出し、ページを開く。

 高貴な犬が愚かな人間たちに道を説いている。ことばに頼りすぎるな。動物としての感性を信じろ。内なる自然を目覚めさせよ。人間たちにはそのことばは聴こえない。もし聴こえたとしても意味を理解できる者はいない。いや、意味なんて理解する必要があるのか。高貴な犬は苦悩する。自問自答する。やがて、高貴な犬はその場所を離れて旅に出る。行き先は決めていない。旅に出る理由も目的もわからない。

 それでいいのか。この物語の寓意を読み取ろうとする。すこしぬるくなったコーヒーをすする。ゆで卵をかじる。白身の弾力のある歯ごたえと黄身のとろける舌ざわり。半熟だ。

 寓話は神話に似ている。突拍子もないようでいて、シンプルに世界の本質をあらわしている。娯楽のための物語は時の移ろいとともに痩せていくが、神話という物語にのせた寓意という暗号は力強く時代の流れを超えていく。この物語に忍ばせた暗号はかたちを変えながらどれだけの時を超えてきたのだろう。

 性能の高いスピーカーからリヒテルの指が軽やかに鍵盤をたたく音が聞こえる。

  奥のテーブルを選んで、使い込まれた古く上質なソファに腰をかける。予想していたよりも体が沈む。腰がソファに包まれる。

 しばらくして店主が水とおしぼりを持ってきた。朝食は自宅で摂ってきたのだが、朝の喫茶店に入るとついモーニングセットを注文したくなる。ホットコーヒーとトーストのセットをオーダーする。

 おしぼりは熱かった。そう、この熱さこそが望ましいおしぼりのあり方。どんなに夏が暑くてもおしぼりは熱々であるべきだ。もちろんタオル生地でなければならない。ペーパーおしぼりなんておしぼりのうちに入らない。手をぬぐい、店主が見ていないのを確認してから顔や首筋にそのおしぼりをあてる。ああ、気持ちいい。

 そういえばさっきのこどもたち、いったいひるをどうするのかな? ひるといえば昔の映画に、密林の沼地で戦士が大量のひるに吸い付かれ、それをナイフでめりめりと剥がしていくシーンがあったっけ。すべてのひるが血を吸う性質をもっているのかどうかは知らないけれど、いろんな生き物の体液を吸って生き延びるというイメージがひるにはある。ひるに体液を吸われた後の生き物、たとえばかえるや魚は、なんだか哀れだ。

 もしも自分が大量のひるに吸い付かれ、体液を吸われたらと思うとぞっとする。まあ、そんな怖い目に遭うことはきっとないんだろうけど。いや、まてよ、ほんとうにないかな? ひるに体液を吸われることはなくても、ひるみたいな人間に大切なものを吸い尽くされるってことはあるかもしれない。ひるよりも人間の方が怖いっていうのはいまさらながらもよくある話だ。