(本好きな)かめのあゆみ -31ページ目

(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

最相葉月さんが

長崎大学名誉教授の産婦人科医である増﨑英明さんに

最新の胎児のはなしを聴くインタビュー。

 

2019年の現在では

ほんとうによく胎児のことがわかるようになって

胎内の画像もまるでほんとうに見ているかのように

見ることができるようになっているけれど

それはほんとうに最近の話で

現在の妊婦さんたちが見ているような胎児の画像は

彼女たちが産まれた頃にはまだそれほどの精度はなくて

さらに彼女たちの親が産まれた頃には

ぜんぜんまったくそんな状況ではなかったという。

 

産む

ということじたいは

人類が登場してから何万年も変わることなく続いているが

その周辺で起こることは

ものすごく変わっているということだね。

 

便利になったこともたくさんあるし

それで救われる命も増えたけれども

その反面

つらくなったことや

それで失われる命も増えたということ。

 

まず

お母さんにかかるプレッシャーは確実に増えているだろう。

 

だって

あらかじめわかりすぎるがゆえに

決断しなければいけないことになる。

 

産むまでわからなければ迷うことも心配することもなかったことが

産む前にわかるので迷ったり心配したりしなければならなくなった。

 

命の選別なんて

個人で負える決断の域を超えている。

 

また

親など年長者からのプレッシャーはほんとうに罪だ。

 

これから産もうとするひとに対して

親などが否定的なあるいは責めるような言動をすることは

厳に慎まなければならない。

 

だってほんとうに時代が違うんだよ。

 

時代が違って技術も常識も変わっているんだよ。

 

あなたたちの時代とは違うんだよ。

 

だけど

産む

ということは普遍的なことのようなイメージが定着しているから

ついつい自分のときと比べたくなってしまうんだね。

 

まあそんなことをいろいろ考えながら読んでいたんだけど

胎児のDNAがお母さんに入るっていう話は興味深かった。

 

その

入る

っていうのがどういう意味なのか

ただ入るだけなのか

それとも

お母さんのからだになんらかの影響を与えるのか。

 

さらに

胎児にはお父さんのDNAが入っているわけだから

お母さんにはお父さん(夫)のDNAも入っているというのは

びっくりする話だった。

 

夫婦仲がいい夫婦なら喜び合うかもしれないが

生理的に受けつけなくなってしまっているような夫婦

あるいは別れた元夫婦なら

身の毛もよだつ話に違いない。

 

ああこわい。

 

この話があまり世間に広がっていないように感じるのは

ただ単にDNAが入っているだけでお母さんにはなんらの影響も与えていないからか

それともあまりにショッキングな話だからか。

 

ああこわい。

 

もし入っているだけなら

腸内フローラの細菌たちの方がよっぽど人体に影響を与えているわけだけど。

 

それにしても

これだけ胎児のことを詳しく知ってしまうと

どうしても胎児は命であるとしか思えなくなって

中絶というのは命を消すことなんだと思えてくる。

 

けれども

日本では

一般的には

産まれてからが命のスタートであり

産まれた日が誕生日となる。

 

そうしないと

社会的に

また

個人の感情的にも

処理しにくいことがたくさんあるからだろう。

 

増﨑先生の言う

「胎児を見ていると、生まれたあとの顔とよく似ているので胎児と新生児は連続してるって、当然のようにみんな思ってますよね。」

「でも、いったん終わるんです、ぼくの認識ではね。」

「水の中で生きてきた人生が終わって、新たに空気の中の人生を始めている。と、思ったほうがすっきりするというか、理解しやすいっていうか。胎児は胎児の時期があって、生まれたあとの人生がまた別にあると考えたほうが、いろんな説明がしやすいんじゃないかなと、この頃は思っていますね。」

という考え方は

きっと多くの困難な経験をしたひとを救うだろう。

 

あと

お母さんがあかちゃんを抱くとき

左胸の方にあかちゃんの頭を寄せる抱き方になることが多いのは

あかちゃんの頭がお母さんの心臓の近くにあることによって

あかちゃんが胎内でいつも聴いていたお母さんのおなかの中の音と同じで

安心してくれるからだというのは

なるほどなあと思った。

 

 

 

 

--胎児のはなし--

増﨑英明

最相葉月

久しぶりに再読。

 

小説らしい小説を久しぶりに読んだなあ

やっぱり古き良き作品はうまいなあ

という感想。

 

作家のオダサクが小説の素材を探すということで

私小説風なのだが

果たしてどこまでが虚構でどこまでが実経験なのか。

 

まるであらすじを読むかのようにぽんぽんと進む展開がリズミカル。

 

かといって大味なわけではなく一文一文がよく練られている。

 

よく練られているからあらすじのようにリズミカルに展開するのかもしれない。

 

冒頭の一文。

 

「凍てついた夜の底を白い風が白く走り、雨戸を敲くのは寒さの音である。厠に立つと、窓硝子に庭の木の枝が揺れ、師走の風であった。」

 

時期も時間も語り手のいる場所もその場の空気感もこの一文に凝縮されている。

 

かっこいい。

 

そしてお決まりの街並み描写。

 

「私は道頓堀筋を歩いているうちに自然足は太左衛門橋の方へ折れて行った。橋を渡り、宗右衛門町を横切ると、もうそこはずり落ちたように薄暗く、笠屋町筋である。色町に近くどこか艶めいていながら流石に裏通りらしくうらぶれているその通りを北へ真っ直ぐ、」

 

という感じ。

 

その時代のその町の面影は現在にはなんら残っていないが

ぎりぎり残っている町や通りの名前からその頃のその町の様子を思い浮かべてみる。

 

不思議な懐かしさ。

 

スタンド酒場「ダイス」のマダムとオダサクのやりとりは羨ましくて

いつかはぼくもそんなやりとりをできるときがくるのだろうか

と考えてみるも詮のないこと。

 

今回の再読では

なぜか次の一文が魅力的に思えた。

 

終盤で

オダサクが天辰の主人に久しぶりに会って

さらに久しぶりに「ダイス」のマダムの料理屋へ出かけた場面。

 

新しい銚子が来たのをしおに、

「ところで」と私は天辰の主人の方を向いて、

「――あの公判記録は助かりましたか」と訊くと、

「いや焼けました。金庫と一緒に……」ぽつんと言って、眼をしょぼつかせ、細い指の先を器用に動かしながら、机の上にこぼれた酒で鼠の絵を描いていた。

 

机の上にこぼれた酒で鼠の絵を描いていた

ってこんな場面がどうして思い浮かぶのか。

 

観察力なんでしょうね。

 

それと記憶力か。

 

それにしても戦争末期から終戦後の年の瀬まで

大阪の街やひとびとの様子が生き生きとありありと描かれていて

目に浮かぶよう。

 

悲惨な状況のはずなんだけど悲惨というより活力があるんだよなあ。

 

生きるための図々しさというかバイタリティというか

非情でもあり情もあり。

 

人間社会の曼荼羅だな。

 

最後の一文が落語のかっこいい落ちのようで実に決まっている。

 

 

 

 

 

 

--世相--

織田作之助

このひとの壮大な世界観が好きなんだよなあ。

 

SF的で未来的

そして哲学的

あるいは宗教的ともいえるかもしれない。

 

つまりは世界の根源的なシステムを表現しようとする試み。

 

仮想通貨の採掘

バベルの塔

命の選別

 

多くのひとが信じればそれには価値がある。

 

無いものに価値をつけるというのは

つまりは錬金術だと思う。

 

広告なんていうのは錬金術の最たるものだと思うけど

通貨っていうのも錬金術に違いない。

 

主人公と恋人

それからニムロッド

 

3人の関係は不思議な引力で結ばれている。

 

リアリティのない関係に憧れる。

 

命の選別の重みを女性にだけ委ねること。

男性が少なくとも半分はその重みを引き受けること。

 

駄目な飛行機コレクション NO.9

航空特攻兵器 桜花

 

帰還不能な特攻機

それはつまり有人ミサイル

 

そんな無茶苦茶な。

 

でもそれは現実に存在し

そしてそれで命を落としたひとがいる。

 

人間はこんなに酷いことを考えて現実のものにできる。

 

「とーほーよーじょーに、さる」

 

去る

去りたい

サリンジャー

 

誰にも読まれることを想定しない小説。

 

サトシナカモト

 

バベルの塔を積み上げる。

 

感情の伴わない涙。

 

悲しんでなどいない。

 

彼女はどこに行ったのか。

 

でも追わない。

 

 

 

 

--ニムロッド--

上田岳弘