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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

読み始めて

これはミステリ

推理小説か?

と思った。

 

平野啓一郎さんといえば

文学的な作品で

エンターテインメント的な作品ではない

というイメージだったので

すこし意外に感じた。

 

小説を

文学とエンタメの二分類にしようとするのは

ぼくの悪い癖で

実際のところ

文学とエンタメの間のはっきりした境界というのはなくて

どちらの成分も混ざっていて

文学要素の強さ

エンタメ要素の強さ

がそれぞれの作品で異なるだけなんだよね。

 

そういえば平野作品も

必ずしも文学文学しているわけではないのだった。

 

ある弁護士が

自らも家庭の問題を抱えながら

ある男の過去を追う。

 

にもあるとおり

ある男の人生を探ることによって

弁護士は自らの人生を探り

さらに作家も自らの人生を探る

という連鎖というか

合わせ鏡というか。

 

愛した人の過去が偽りだった場合

その愛は偽りになるのか

そしてその愛で感じた幸福は偽物になるのか。

 

ぼくはふとこんなことを思い出した。

 

あるひとがものすごく好きな絵画を手に入れ

本物であることを信じ込んでいて

毎日それを鑑賞することが楽しみで

幸せだったとする。

 

しかしその絵画は実は偽物で

あるときそれを知ってしまったとしたら

それまで感じていた幸せは偽物だったということになるだろうかという問い。

 

本物にこだわるひとだったとしたら

だまされた気分になってそれまでの幸せを偽物だったと思うかもしれない。

 

けれどももし

死ぬまで偽物だと知ることがなかったとしたらどうか。

 

この問いに対するぼくの答えは

幸せだった

となる。

 

だって実際に幸せだったわけだし

偽物だと知ることもなかったわけだから。

 

でもこんな悩ましい例もある。

 

独裁者に過酷な支配をされているひとがいる。

 

他の国のひとからみたらどう見ても不幸せなひとである。

 

しかしその独裁者は徹底した情報統制で

外国からの情報が一切そのひとに伝わらないようにし

さらにそのひとには

独裁者のもとで生きることが幸せだと信じ込ませることに成功している

とする。

 

そしてそのひとは死ぬまで実際に幸せだと信じ込んでいた。

 

さっきの絵画の例に対するぼくの基準からすると

この場合も死ぬまで信じていたわけだから

やはり幸せは本物だということになるはずだけど

なぜかこの場合は偽物だと思ってしまう。

 

いったいこの両者の違いはなんなんだろう。

 

われながら不思議だ。

 

この小説のなかで

ある女性がこの問いに対して

そんなに難しくないという顔で答える。

 

「わかったってところから、また愛し直すんじゃないですか? 一回、愛したら終わりじゃなくて、長い時間の間に、何度も愛し直すでしょう? 色んなことが起きるから。」

 

主人公の弁護士は

彼女の表情に点る芯の強い繊細な落ち着きが無性に愛しかったし

通念に染まらぬ一種の頑なさと

それが故の自由な、幾らかの諦観の苦みのある

彼女のものの考え方に影響を受けてきたことを意識する。

 

ぼくにとっては

このやりとりを含む場面がこの小説のハイライトだといってもいい。

 

きっとぼくだったら

おとなの抑制を利かせずに

感情の昂ぶりに身を任せてしまうだろう。

 

あともうひとつのハイライトは

ある男の妻と息子の最後のやりとりの場面。

 

きっとこの少年は複雑で繊細な思いやりのある優しいひとになるだろう。

 

彼が文学に出会ったのはほんとうに良かった。

 

それからもうひとつ。

 

弁護士が家族で出かけているときに

妻の携帯にLINEが届いたのを見てしまったときの弁護士の心境と反応。

 

わかる気がするひとと理解できないひとがいると前置きがあるけれど

いまのぼくならわかる気がする。

 

でもそれが正しい気持ちかどうかは自分でもわからない。

 

さらにもうひとつ。

 

主人公の弁護士が地震のボランティアに出かけることについて

家族がつらい状況なのになぜ他人を先に助けようとするのかと

妻が不満を抱くこと。

 

どちらの立場もよくわかる。

 

両方を同時に満たせたらいいけど

価値観の相違っていうのはこういうところにあらわれて

決定的な亀裂になりえる。

 

ミステリの要素を用いながら

やはり人間存在に対する深い問いかけになっているところが

平野啓一郎さんの作品らしくて

ぼくは好きだった。

 

 

 

 

 

 

--ある男--

平野啓一郎

現代の日本は女性にとって生きにくい社会だな

と常々思っている。

 

この小説は韓国の話で

日本と異なる部分も多いが

共通する部分もたくさんある。

 

っていうか

個人的にはほとんど共通しているように思える。

 

女性であるという理由で課せられた制約。

 

わずかな選択肢あるいは暗黙の強制。

 

祖母の世代

母の世代

そして自分の世代

でその内容は変わっていくが

ベースとなる考え方は変わらない。

 

女性の制約について女性が声をあげると

男性だって苦しいという声が必ずあがる。

 

特に韓国の男性には兵役があるので

そういう声には説得力があるように聞こえる。

 

でもこういう男性対女性みたいな争いの場面に出くわすと

ぼくはいつもこう思う。

 

どっちの方がより苦しいかを比べて我慢を強い続けるなんて馬鹿げている

どっちの苦しみも薄れるようにお互いが協力したらいいんじゃないの?

って。

 

そうやってお互いに個々の苦しみを薄れさせるように協力しても

現時点での人間社会は万能ではないので

どうしても残る苦しみというのは必ずある。

 

結果

いまとそれほど変わらない男性女性の苦しみが残るのかもしれない。

 

でも

どうしてもその苦しみが残ってしまう理由さえわかれば

我慢するにしてもより納得性が高まるんじゃないかな。

 

協力して問題解決を図る過程を飛ばして現状を是認せよっていうのは

乱暴な押し付けだと思う。

 

素朴な感想として

キム・ジヨンも

同僚や友人の女性も

母世代も祖母世代も

辛いだろうなあと思う。

 

こんな経験はしたくないし

自分の家族や親しいひとにこんな経験をしてもらいたくない。

 

出産、子育てに関わって

男性が失うものと女性が失うものは比べようがない。

 

子どもも欲しい

仕事もしたい

それが誰もに必須の願いではないとしても

それを願うひとがそれを求めるのはそんなに無茶なことではないと思うし

それが実現できないのはやはりどこかがおかしいのだろう。

 

現にそれを実現している社会もあるわけだから

絶対に不可能というわけではないはずだ。

 

男性女性の双方に現状のような制約を課すことで

利益を得ているものがあるはずで

それは何らかの企業や政府であったり

ときの権力基盤であったり

当事者以外の祖父母世代父母世代であったり

それこそ同世代の同性のなかにもいるだろう。

 

もっといえば苦しみの渦中にあるはずの

自分自身のなかにさえ潜んでいるかもしれない。

 

男性女性という大括りの利害もあるが

個々の人間には異なる利害があるのも事実だ。

 

ぼくは

無知のベール

の話が好きで

それはどんな話かというと

今の世界に存在するすべてのひとが

いったん自分の属性

人種、国籍、居住地、性別、職業、役職、結婚しているかどうか、子どもがいるかどうか、障害があるかどうかなどのすべての属性

を忘れてしまう無知のベールの下に潜り込んで

このベールを出たあとに自分がどんな属性になっても構わないように

社会のルールを組み立てましょうって話し合う

っていうもの。

 

どうしても現実の世界では既存のルールに引きずられてしまうので

ゼロベースで考えるなんてできないけど

理想像を描くっていうのは必要だと思う。

 

日本版の

82年生まれ、キム・ジヨン

も読みたい。

 

この本の推薦文を書いた松田青子さんあたりが書くのがいいかな。

 

日本版だったら

82年生まれ、佐藤裕子

とかになるのかな。

(裕子は82年生まれでいちばん多い女性の名前、佐藤はいちばん多い姓。)

 

あと

男性版のも読んでみたい。

 

女性とは異なるにしても

男性にも社会的な性別期待像による苦しみはあるので。

 

ぼくがふだん読んでいる小説とは趣が異なって

精神科医が患者の経験をまとめたという体裁になっているけど

ノンフィクションっぽいというか統計的な描写で

そういう描き方が新鮮だったし効果的だったと思う。

 

伊東順子さんの解説で知った

この小説での名前の表現のねらいもなるほどなあと思った。

 

ミラーリングっていうのは無知のベールにも似ている。

 

 

 

 

 

--82年生まれ、キム・ジヨン--

チョ・ナムジュ

訳 斎藤 真理子

世界は存在する。

 

それがぼくたちの一般的な理解。

 

けれども

マルクス・ガブリエルは

世界は存在しない

という。

 

えっ?!

いや、現にここにあるし

って思う。

 

 

 

月がある。

 

東京からそれを見上げるAさん。

 

大阪からそれを見上げるBさんとCさん。

 

 

 

AさんBさんCさんがどこから見ていようと

あるいは誰も見ていなくても

月がある。

 

それは形而上的な月の存在。

 

月のイデア。

 

月そのもの。

 

 

 

いや

月そのものなんてない。

 

あるのは

東京から見上げるAさんにとっての月

大阪から見上げるBさんにとっての月

同じく大阪から見上げるCさんにとっての月

だけで

同じ月なんてない。

 

それは構築主義の月の存在。

 

意味を構築。

 

つまり幻想かもしれない月の存在。

 

 

 

いやいや

月そのものもあるし

東京から見上げるAさんにとっての月も

大阪から見上げるBさんにとっての月も

同じく大阪から見上げるCさんにとっての月もある。

 

それが

マルクス・ガブリエルのいう

あたらしい実在論における月の存在。

 

無数の意味の場の数だけ無数の月がある。

 

 

 

けれども世界は存在しない。

 

ひとつのルールで説明できるような世界は存在しない。

 

 

 

自然科学で説明できる世界は

あくまでも自然科学の見方(パースペクティブ)の範囲での

世界である。

 

宇宙は自然科学で説明できる。

 

人間もあらゆる物質も

単に素粒子の集積に過ぎない。

 

そんなふうに考えるのは

あくまでも自然科学の見方の範囲での世界。

 

ぼくたちが見る夢や思い出や想像は

自然科学で説明できないがまぎれもなく存在する。

 

 

 

 

神のもとで説明しきれる世界も存在しない。

 

それはその神の範囲での世界に過ぎない。

 

 

 

かように世界は存在しない。

 

けれども

世界以外のすべてのものは存在する。

 

そこに希望や自由がある。

 

ぼくたちはつい

わかりやすいルールを求めて安心したくなるけれど

そんなものはない。

 

だからこそ希望や自由がある。

 

いつも考え続けて

その都度その都度

折り合いをつけていかなければならない。

 

それはしんどいことだけど

希望や自由もそこにある。

 

わかりやすいルールに縛られるのは実は窮屈で息苦しいんだから。

 

 

 

こんなふうにこの本を解釈してみたけれど

やっぱり1回読んだだけではわからないな。

 

簡単そうで難しいよ。

 

でも

とても刺激的な冒険ではある。

 

 

 

 

 

--なぜ世界は存在しないのか--

マルクス・ガブリエル

訳 清水一浩