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(本好きな)かめのあゆみ

かしこいカシオペイアになってモモを手助けしたい。

ぼくは子どもの頃から

「みんないっしょ」

「みんななかよく」

っていうお題目がめちゃくちゃ苦手で

でもそれが正しいから自分はおかしいんだろうって思って

精神的に圧迫されていたんだけど

おとなになっていろんなことを知るにつれて

「みんないっしょ」

「みんななかよく」

っていうのは

全否定はしないまでも

ことばの使い方を間違ってるし

縛られる必要なんてないし

むしろ縛られない方が生きやすいし

そう感じるひとはそれほど少数派でもない

っていうのに気づけたから

いまはすごく楽で

この本で菅野仁さんが訴えていることは

とてもよくわかるし共感する。

 

まだこの考え方に気づけていない

子どもたちや

おとなたちは

ぜひとも読んで楽になってほしい。

 

あと

菅野仁さんが

読書で作者と対話すること

未知のことばに出会って自分自身や世界をとらえることの

おもしろさを訴えていた部分にはまったくぼくも同感です。

 

 

 

ここからはメモ。

 

自分以外はすべて他者。

近い他者と遠い他者の距離感の違いはあるが

家族や恋人でも他者であるということを忘れてはいけない。

なんでも自分と同じように感じるはずと思うのは間違い。

適切な距離感を測ることができるというのが

おとなのたしなみ。

 

学校でも職場でも

もしかしたら家庭でも

気の合わない人とでもいっしょにいなければならない場面は多い。

いっしょにいなくても構わないならそれに越したことはないけど

いっしょにいなければならないときには

いっしょにいるための作法というものがある。

関わり過ぎず

無視もせず

最低限の接触に留める作法。

関わり過ぎず

はよくわかるけど

なぜ

無視をせず

なのかというと

無視は攻撃とみなされるから

むしろ深く関わっているのと同じことになるから。

 

他者との交流にもふたとおりあって

自分にとって何か利益や得になる交流

利益や得はないけど交流そのものがたのしいしうれしいし落ち着くっていう交流。

 

どちらか一方っていうのではなくて

どちらもが混じる。

 

良いとか悪いとかじゃないけど

自分とこのひととの交流は

利益や得につながる要素が強いのか

交流すること自体がたのしいという要素が強いのか

っていうのを意識しておくと

関係で困ったことが起こったときに対処を間違えない。

 

同調圧力

っていうのは人間を追い込む。

過去の社会では生命維持に必要だった側面はあるけれど

現代の社会では生きにくさの要因になっている。

 

不安解消のために群れる

っていうのもある。

群れてるひとたちって不安そうだよね。

群れることでさらに不安になっていることもあると思うし。

その群れから離れると死活問題

ってくらい思いつめているひともいるし

もともと群れの外にいるひとよりも

群れから外れたひとへの攻撃の方が激しかったりするし。

 

ああおそろしや

同調圧力。

 

現代社会では

個性や自由が獲得できる状況になっているにもかかわらず

同調圧力に縛られている。

個性や自由が目の前にあるのに

同調圧力で両手両足を縛られている状態。

 

過去の学校や社会では身の回りのひとは

ある程度似通った環境のひとたちばかりであったけれど

現代では実に多様な環境のひとびとに囲まれている。

 

「みんないっしょ」

「みんななかよく」

は既に幻想。

 

無理に関わらせるから傷つけあう。

 

愛せない場合は通り過ぎよ

とはニーチェのことば。

 

現代は弱い者だけが攻撃されるのではなく

本来強いとされる要素を持つ者

かわいいとかお金持ちとか頭がいいとか

そういう優遇されている者への嫉妬

ルサンチマンが目立つようになっている。

 

ルール関係と

フィーリング関係

っていうのがあって

「みんないっしょ」

「みんななかよく」

はフィーリング関係の強要。

 

どっちもあっていいけど

場面場面で使い分けないと間違える。

 

学校にももっとルール関係を入れた方がいい。

 

でも

間違ってはいけないのは

ルールは自由のためにあるのだから

最小限に留めなければ窮屈になる。

 

殺すな

盗むな

みたいな

これさえ守ればあとは自由

っていう最小限のルール。

 

学校は勉強をする場所っていうけど

安全な場所である

っていうのが最低条件。

 

安全でない場所に子どもを放り込んでいいの?

勉強なんて安全の次ですよ。

 

いまは教育現場に

何も考えずに過去の理想だけを推進力に誤った方向にエネルギーを発散する教師と

現代の状況に適合したあたらしいやり方をしようとする教師が入り混じって

混乱しているような気がする。

 

これを整理するのはとても難しい。

 

生徒は教師を選べないしね。

 

じゃあ生徒が教師を選べる仕組みにしたらいいのかな?

 

おとなに必要なのは

自分の欲求のコントロールと

自分の行いに対する責任の意識

それから

人間関係の引き受け方の成熟度。

 

人間には可能性があるが限界もあるっていうことを

ちゃんと子どもたちに教えるべきだ。

 

人生の苦みとうまみ。

 

ほどよい苦みの先のうまみ。

 

浅いうまみとは違う深いうまみ。

 

ひととつながりたい私。

傷つくのは嫌だという私。

 

自分にとって信頼できる他者を見つけられるのは幸運。

ひとはどんなに親しくなっても他者なんだということを意識したうえでの信頼感。

百パーセント自分のことなんて理解してもらえなくて当然。

それでも理解しようとしてくれるひとと出会えたら最高。

 

 

 

--友だち幻想 人と人の<つながり>を考える--

菅野仁

上田岳弘さんの作品との出会いは

新潮2013年11月号。

 

川上未映子さんの

ミス・アイスサンドイッチ

野田秀樹さんの

MIWA

を読みたくて購入したこの本。

 

その本には新潮新人賞の発表も載っていたので

文芸誌の新人賞受賞作品ってどんなもんだろう

って興味本位で読んでみたのが

太陽

だった。

 

その巨大な世界観に惹きこまれてファンとなり

惑星

私の恋人

異郷の友人

塔と重力

ニムロッド

と期待を裏切られることなく読み続けてきた。

 

そしてこの

キュー。

 

集大成といえるんじゃないかな。

 

これまでの作品の世界観を総仕上げしたような作品。

 

時空を超え

有機物無機物を超え

性も個もあらゆる境界を溶かしに溶かして

やがてやってくる全体の世界。

 

テーマは

寂しさ

かな。

 

ぼくは集団に疲れ孤独に癒されるタイプの人間だけど

ときには寂しさに包まれることもある。

 

寂しさとひとことでいっても

味わい深い寂しさもあれば

疎外感を感じるつらい寂しさもある。

 

寂しさの感情は

人間が社会的な存在として他者と連帯し

生存率を高めるために必要なものだ

という説明もあるだろうが

そういう説明では物足りないとも感じる。

 

彼はなぜ最後のひとになったのか。

 

理解できず

理解されず

理解し合えず。

 

淡々とした描写で

感動的な涙なんてものは期待してはいけないけど

最後にそれが空から降ってきたとき

ぼくは少し寂しさが和らいだような

そんな気がしたんだよ。

 

 

 

 

 

-- キュー --

上田岳弘

きのう、川上未映子さんのサイン会に行ってきた。

 

新刊

夏物語

の刊行記念。

 

未映子さんのサイン会は2年半ぶりの4回目になる。

 

おそらく紀伊國屋書店梅田本店のサイン会は皆勤賞だと思う。

 

前作の

ウィステリアと三人の女たち

ではサイン会はなかったと思うので

あこがれ

以来のサイン会。

 

といっても

味園ユニバースでの

マームとジプシーの公演

みえるわ

のときに

未映子さんの姿は見ているので

それ以来ぶりってことになる。

 

さすがにサイン会も4回目ともなると

万事に余裕で

なんなら忙しかったら無理してまで行く必要もないかもな

なんて考えもよぎったのだが

やはり

会いたい

サインをもらいたい

というファン心理が強く働き

土曜日ではあったが参加してきた。

 

14時10分前に受付開始ということであったが

きっとその前から受け付けるだろうなということもわかったうえで

まあゆっくりでいいだろうと

30分前に書店に着いていながら

本棚を物色するなどして時間を調整していた。

 

15分前くらいにふと

そういえば未映子さんが

下のフロアから階段を上がって会場入りする場面を観られるんだった

と思い出して受付に行くと

案の定

すでに40人くらいの列ができていた。

 

そして14時になって未映子さんがご登場。

 

この登場のしかたがいいんだよね。

 

読者に会えてこころからうれしい

という笑顔であいさつしてくれる。

 

ぼくと目が合ってぼくに気づいてにっこりしてくれたかも

なんて思ったりして。

 

まあこれはしあわせな勘違いも甚だしいわけなんだけど。

 

会場入りされて

順番に小部屋のなかに案内される。

 

ぼくの番が回ってくるまでは

ひとり1分としても40分くらいかかるだろう。

 

並んでいるひとたちから推察するに

ファン層は以前に比べて確実に広がっているような気がする。

 

きみは赤ちゃん

とか

早稲田文学女性号

なんかで未映子さんに関心を持ったひとは多いんじゃないかな。

 

夏物語

反出生主義

なんかのテーマも扱っているみたいなので

ショックを受けるひともいるかもしれないな。

 

まあでも

このことを考えるのはたいせつなことなので

きっかけはどうあれ多くのひとに考えてほしい。

 

ひとの命をこの世に生み出す責任の重さ。

 

順番を待ちながら

未映子さんになんて話しかけようかと考える。

 

いちおうあらかじめ考えてはいた。

 

なにか聴きたいことを質問するか

自分がいかにファンであるかを伝えるか。

 

いい質問をするのにはセンスがいるような気がするので

自分が川上未映子作品のどういうところが好きかを伝えようと

決めていたけど

当日に書店からもらったメッセージカードにそれを書いてしまったので

ほかになにかないだろうかと考えていたのである。

 

ふと壁をみると夏物語のポスターが貼ってあり

乳と卵の続編

と書いてある。

 

そこでひらめいた。

 

乳と卵を読み返してから夏物語を読むべきか

夏物語を読んでから乳と卵を読み返すべきか

迷っているけれどなにかご助言はいただけますか?

 

これでどうだろう。

 

わりとセンスのある質問ではないだろうか。

 

だいたいご本人を目の前にすると

緊張して噛み噛みになって

うまく言えないことがわかっているので

こころの中でなんども繰り返してリハーサルする。

 

そしてぼくの番が回ってきて小部屋に呼ばれる。

 

前には男性、その次に親子らしき女性と少女。

 

男性が比較的長く未映子さんに話しかけていたのだが

ああ、募る思いを伝えたいんだなあ、ぼくにもそんなことがあったなあ

と余裕の気持ちで眺めていた。

 

次の親子らしき女性と少女は気さくな感じで未映子さんと

もうすぐ夏休みねえ

などと話していたが

乳と卵の巻子と緑子の母子と重ね合わせ

彼女たちはこの物語に何を感じるだろうか

なんて考えてみる。

 

ぼくの順番になったわけだが

なぜかすでに話しかけたい気分は薄れていて

早くサインをいただいて

早くこの部屋を出て行こう

未映子さんもいつになくお疲れのように見えるし

これからまだ60人くらいと話すであろうから

ぼくとの時間を休息に使っていただこう

などという気持ちになっていた。

 

あとで思えばこれも完全なひとりよがりで

未映子さんにしてみたらせっかくの機会なので

読者との会話はしておきたかったかったかもしれない。

 

それに

サイン会まで来ておいて話をしないファンというのは

ある意味では不審だったかもしれない。

 

ところで

今回もこれまで同様に

過去に美術館で購入していたローランサンのポストカードに

メッセージを書いたものを用意していたので

それを渡した。

 

すぐに読もうとした未映子さんに

あとで読んでいただければ

いや、なんなら読んでいただくまでもありません

と声にならない声で伝えた。

 

どうにか伝わり

心地よい沈黙の時間のなか

未映子さんが本にぼくの名前とサインを書く。

 

サインをしてくださった後

お手紙は必ず読ませていただきます

とていねいに言いながら握手をしてくださいました。

 

ぼくがついつい左手を添えると

未映子さんも左手を添えてくださいましたが

だいたいいつも握手の感触とか

なんにも覚えていないんだよなあ。

 

たぶんお互いの手はほとんど触れていなくて

両手でそっと包み込むようなかっこうになっているんだと思う。

 

いったいなんの分析をしているのだろうと自分でもおかしいが。

 

ともかくもやはり参加して良かったサイン会。

 

帰り道にはついつい顔がにやけてしまいました。

 

未映子さん、出版社のみなさん、書店のみなさん

ありがとうございました。

 

良い夏の思い出になりました。

 

ぼくはたぶん

あえて乳と卵を読み返さずに夏物語を読むと思います。

 

楽しみ楽しみ。