四季とタカラヅカ(浦澄彬の批評アーカイブ18)
劇団四季とタカラヅカ歌劇 (2002.3.3)
今の日本のミュージカルを牽引しているのは、間違いなく四季とタカラヅカである。四季出身の役者と、 タカラヅカ出身の女優がいなければ、日本の舞台の半分以上は成立しなくなる。
それはいいのだが、このところ、両劇団をみていると、どうにも役者の入れ替わりが速すぎて、ついて いけなくなっている。
タカラヅカのトップスターが、とうとうお披露目公演でそのままやめてしまうということ まで起きている。5組になったあたりから、なんだかおかしくなってきたのではなかろうか。今では、それ ぞれの組のトップが誰なのかわからなくなった。
これは、タカラヅカという、良くも悪くも20世紀の日本にしかありえなかった劇団が、新しい時代に生き 残っていくために必要不可欠な過渡期なのだろうか。
同じことが、四季にも言える。昔のように、看板役者がいて、その役者の魅力で客がくるというわけでは なく、今の四季の公演は、とにかく客が集まる演目を全国に広く展開して、まるで日本中の劇場を手中に おさめようとしているかのようだ。
確かに、『オペラ座の怪人』や『キャッツ』『ライオンキング』といった演目 が、日本にいながら年中楽しめるのは、ありがたいことである。
ミュージカルのロングランということが、 日本で可能になったのは、四季のおかげである。
けれど、今の四季は、無理をしすぎているように思える。京都で公演中の『オペラ座の怪人』をみて、 ますますそう感じた。役者の入れ替わりが激しくて、きちんと若手が育っていない。これから四季を背負っ て立つはずの人材が、次々と辞めていってしまう。それぞれの役者の事情がもちろんあるのだが、今の 四季の全国展開を支えるために、役者に過大な負担がかかっていることは否定できまい。その条件で 長く仕事を続けることができないので、やむなく辞めていく人が多いのであろう。
激しい競争によって淘汰されることで、劇団の水準を高く維持しているというのは、聞こえはいい。しかし、 あまりに淘汰しすぎて、じっくり育てるべき役者を切り捨てていっているともいえまいか。
日本にミュージカル文化が根付くまでの、産みの苦しみなのかもしれない。だが、いくら高水準の舞台 を日本各地で展開できても、それぞれの役者が魅力的でなければ、贔屓の客はつかないだろう。
洋の 東西を問わず、芝居は役者で観るものなのだ。
今の日本のミュージカルを牽引しているのは、間違いなく四季とタカラヅカである。四季出身の役者と、 タカラヅカ出身の女優がいなければ、日本の舞台の半分以上は成立しなくなる。
それはいいのだが、このところ、両劇団をみていると、どうにも役者の入れ替わりが速すぎて、ついて いけなくなっている。
タカラヅカのトップスターが、とうとうお披露目公演でそのままやめてしまうということ まで起きている。5組になったあたりから、なんだかおかしくなってきたのではなかろうか。今では、それ ぞれの組のトップが誰なのかわからなくなった。
これは、タカラヅカという、良くも悪くも20世紀の日本にしかありえなかった劇団が、新しい時代に生き 残っていくために必要不可欠な過渡期なのだろうか。
同じことが、四季にも言える。昔のように、看板役者がいて、その役者の魅力で客がくるというわけでは なく、今の四季の公演は、とにかく客が集まる演目を全国に広く展開して、まるで日本中の劇場を手中に おさめようとしているかのようだ。
確かに、『オペラ座の怪人』や『キャッツ』『ライオンキング』といった演目 が、日本にいながら年中楽しめるのは、ありがたいことである。
ミュージカルのロングランということが、 日本で可能になったのは、四季のおかげである。
けれど、今の四季は、無理をしすぎているように思える。京都で公演中の『オペラ座の怪人』をみて、 ますますそう感じた。役者の入れ替わりが激しくて、きちんと若手が育っていない。これから四季を背負っ て立つはずの人材が、次々と辞めていってしまう。それぞれの役者の事情がもちろんあるのだが、今の 四季の全国展開を支えるために、役者に過大な負担がかかっていることは否定できまい。その条件で 長く仕事を続けることができないので、やむなく辞めていく人が多いのであろう。
激しい競争によって淘汰されることで、劇団の水準を高く維持しているというのは、聞こえはいい。しかし、 あまりに淘汰しすぎて、じっくり育てるべき役者を切り捨てていっているともいえまいか。
日本にミュージカル文化が根付くまでの、産みの苦しみなのかもしれない。だが、いくら高水準の舞台 を日本各地で展開できても、それぞれの役者が魅力的でなければ、贔屓の客はつかないだろう。
洋の 東西を問わず、芝居は役者で観るものなのだ。