$Ardent Obsession II


1960年代後半、時代は激しく動いた。

TV関係の会社に勤めていた団鬼六氏が山邊信夫氏と『花と蛇』を製作したのが1965年(昭和40年)。渡辺護、山本晋也、向井寛といった後のピンク映画の中心となる監督達がデビューした年も1965年である(ちなみに、若松孝二は一足早い1963年にデビューしている)。この年に製作されたピンク映画はおよそ218本。前年の69本から倍以上の伸びである。全国4,600の映画館の20%近い900館がピンク映画上映館となり、公開される映画の約半数が成人映画であった。ピンク映画の製作に関わる「エロダクション」と呼ばれる大小の映画会社は、1965年に、その数なんと90社となる。1964年には20社に過ぎなかった。まさに、猫も杓子も「エロ映画」ブームだったわけだ。事実、映画とは(それまでは)縁遠い金融業等が、一攫千金を狙って参集した、数人規模のエロダクションも、かなりの数存在していたようだ。若松監督の1965年ヒット作『情事の履歴書』は3000万円の儲けがあったと言われている。若松監督は平均以上の制作費をかけていたようだが、それでも制作費は500万円を上回ることはなかったであろう。製作日数が2,3週間であることを考えると、確かに美味しい商売だったのかもしれない。山邊+団コンビも、この一攫千金を狙ったグループのエロダクションに分類されるのかもしれない。

ところが、1966年(昭和41年)になるとピンク映画の製作数は218から186本に減る。早くも淘汰が始まったのだ。同時に、この頃から五社の反撃が始まる(反撃というのもおかしいかもしれない。ピンク映画の成功を横目で見ながら、おりからの経営難の打開策としてエロ路線へ踏み出したわけだ)。6月に公開された東映『悪童』で男性の自慰シーンが話題となっている。1967年(昭和42年)には、ピンク映画は164本と漸減する。一方、東映は中島貞夫監督『大奥(秘)物語』で興行的に成功する。波に乗り、エロ路線を強める東映は、1968年(昭和43)年に歴史的話題作『徳川女系図』を製作する。谷ナオミとするピンク映画女優を大量投入した超エロエロ映画である。今見ても度肝を抜かれるこの作品の監督こそが「石井輝男」である。


石井輝男は1924年(大正13年)生まれ。辻村隆より少し年下で、長田英吉の1年年上になる。早稲田実業を中退したのち、東宝に入社し終戦を迎える。1947年の東宝分裂時に、新東宝に移り、1957年(昭和32年)に監督第一作『栄光の世界』を製作する。新東宝は1961年頃に解散するが、その少し前に石井は東映に移っている。

東映での石井の代表作として高倉健の『網走番外地』シリーズが知られているが、これはエロ路線の前の、1965年(昭和40年)から始まっている。大ヒットしたこのシリーズは、1967年(昭和42年)には10作目に突入する。ただこの頃になると、石井は少々行き詰まりを感じていたようだ。そんなときに、社長就任まもない岡田茂からエロ映画の企画もちかけられる。石井はそれまでピンク映画を観たことはなかったようだ(ノート1)。「予備知識無しで自分流の成人映画を作ろう」と作られたのが上述の『徳川女系図』。豪華絢爛たるエロエロ映画で、いわゆる独立エロダクションが作るピンク映画には望めない面白さを出している(決して優劣を述べているわけではないが)。

この『徳川女系図』に続いて企画されたのが、『徳川女刑罰史』。前回紹介したように、団鬼六氏のもとに、「T映画のプロジューサ、監督氏達」が意見を求めにきた作品である。団氏は、この『徳川女刑罰史』の緊縛指導師として、辻村隆を東映に推薦した。

『徳川女刑罰史』は3話構成のオムニバスになっている。舞台は徳川時代。近親相姦、尼と僧侶の破戒や同性愛、キリシタン禁制破りなどの犯罪人に対する「刑罰」の映画だ。1964年の小森白監督『日本拷問刑罰史』(新東宝)のヒット以降、「刑罰」ものの映画がいくつか製作されているが、その路線上の作品で、団氏をして「緊縛映画の自民党というところですな」と皮肉を言わしめた流行の責めモノ映画である。

『徳川女刑罰史』における辻村の緊縛の様子は、辻村自身が、奇譚クラブ1968年(昭和43年)12月号「S・M カメラハント『徳川女刑罰史』(秘)銘々伝」に詳しく紹介している。1ヶ月にわたる撮影で、16人の女優を縛った大がかりな緊縛指導である。このカメラハントで興味を惹かれる部分をかいつまんで紹介してみると、「カメラハント式に・・パッパッと撮り終わり、すぐさま縄を解くというなら、かなり強引に無理な体位を(とれるが)、映画で僅か数分そこそこのシーンでも・・一日がかりになる」。したがって、長時間の緊縛に女優が耐えられるように、知恵を絞っていたようだ。もちろん見た目には厳しく縛らなければならないので、例えば、見えない部分にスポンジや綿などを挟んで肌への負担を軽減するといった工夫だ。
 
緊縛は辻村氏が最初に見本を示し、それを助手がマスターし、助手だけで縛ったり解いたりできるようにしたようだ。同じシーンを何回もカメラアングルを変えて撮影するので、女優への負担を減らすために、随時縛りを解いて休憩するので、何回も同じ縛りをする必要があった。辻村氏から緊縛を伝授されたこれらの助手のその後に興味があるが、これ以上の情報はない。
 
江戸時代の捕縄術や罪人の責めの方法は、かなり厳密に決まっていたのだが、辻村も石井もそういった時代考証は無視して、自由な考えで作品を作っていったとある。例えば、映画では海老責め状態で、さらに笞(むち)で責めているが、これはしきたりに反する責め方だそうだ。

映画の冒頭に、「三段切り」「火あぶり」「牛裂き」といった強烈な死罪シーンがあるのだが、これは女優ではなく、「Kプロのスタジオヌード」が起用されている。その理由はよくわからないが、この「Kプロ」というのはピンク専門のモデルプロダクション「火石プロ」なのかもしれない。団・山邊コンビの『花と蛇』の主役、紫千鶴も「火石プロ」出身である。ロケ現場には、11PMのスタッフや阪大の大野助教授、奇譚クラブの吉田などが見学に来ていたとある。


さて、このように辻村氏、石井氏とも気合いの入った『徳川女刑罰史』であるが、予想通り大きな衝撃をもって迎えられる。まず、奇譚クラブの読者達はどう評価したのであろう。

奇譚クラブ1969年(昭和44年)1月号には、岡田咲子女史と、千草忠夫氏の感想が出ている。岡田は「TVの予告編を観て、○○拷問史のようになるのではないかと心配していた・・・これらの映画は耽美的要素がない・・・(それは杞憂におわり)素晴らしい作品だった。もし緊縛監督がいなかったならば、この映画もまた見せ物映画に終わっていただろう」と高評価である。一方、千草の方は「いささかがっかり。併映の「不良番長」の方が印象に残る。ムードが全くない。哀切感が希薄。最初の三段切りの女優の表情のアップはよいが、見せ場はここだけ。」と少々厳しい。がんがん責める石井の映画は、確かに情緒あふれるSMとはほど遠い。さらに「第二話の磔のシーンで二の腕を縛らないで肘を曲げた格好にガッカリ」と奇譚クラブの読者らしいコメントを残している。

辻村氏は、この映画を期に、とうとう11PMに出演してしまっている。さらに、石井の次回作、『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』(1968)では、自らも木樵役で出演してしまっている。もちろんこの作品と、続く石井の『徳川いれずみ師 責め地獄』(1969)も辻村の緊縛指導による作品だ。表の世界への露出を始めた辻村氏は、1971年には中島貞夫監督の『性倒錯の世界』、鈴木則文監督の『温泉みみず芸者』(これは団氏も出演している)に出てしまう。

このような動きに対して、奇譚クラブの読者は1969年(昭和44年)7月号で、「自粛が必要だ」と主張している。辻村氏の露出が導火線になり、大変なことになるのではと心配しているわけだ。1968年(昭和43年)12月号にも「大資本をもつ映画会社はこのような映画をつくるべきではない」「反動がくることは目に見えている」「異常心理による行為を暴露されるときは、個人にとって社会的な死を意味する。」「いかに理屈を並べて正当化しようとも、現在の社会においては『へんたい』は声を大にしてとうるものではないので」「細く長く、ある時は深く静かに潜航することです」とある。今と違って、変態を隠しながら生活しなければならなかった当時の様子がよくわかる。


さて、映画界の反応はどうだったのであろう。こちらも賛否両論大変な騒ぎである。まず、佐藤忠男が「ピンク映画よりも愚劣である」「その低級さがやりきれない」「ほとんどまったく無感動にエロ・グロと人格的侮辱のイメージをられつしていける神経に、ほとんど嘔吐感がこみ上げてくる。」と最高に手厳しい。岩井知恵男氏「映画界の不況を乗り切るための手段だと会社首脳は発言するが、果たしてこれでいいのか」と批判的である。これに呼応するように、『徳川いれずみ師 責め地獄』(1969)の撮影時には、とうとう助監督24名がボイコット騒ぎを起こす。いわく、「映画五社は貪欲な利益追求のあまり、ひたすらにエロ・グロ・俗悪映画の生産に専心している。わけても我々が働く東映の映画製作の現状には目にあまるものがある。いわゆる“異常性愛路線”と呼ばれる一連の作品は、異常性、残虐性、性倒錯、醜悪性のみを強調拡大し、早々映画としての本質を失い、俗悪な見せ物化し、東映資本の厚顔無恥な金儲け主義の道具になり下がっている。」ということだ。

ところが、この声明文を出した助監督のひとり、関本郁夫氏は「ただもう呆然とスクリーンに見入るばかりであった。石井節が舞い上がり、躍動する大傑作である」と、本音は感動してしまっている。さらに、やはりこの助監督グループに入っていた、荒井美三雄氏がまもなく監督に昇進し、その第一作が『温泉ポン引き女中』という落ちまでついている。

1969年の映画芸術10月号に書かれた長部日出雄氏の評は次の通りである。

「石井輝男は、つねに企業の要請にこたえているように見えながら、実は時代の転換期に、必ず旧体制の墓堀人として立ち現れる地獄の使者のような存在のように思われる」。

SMマニアが好むとも好まざるとも、時代の流れは、確実にSMを表の世界へと引きずり出そうとしていた。


(参考文献)
辻村 隆『S・Mカメラハント「徳川女刑罰史」(秘)銘々伝』奇譚クラブ、1968年(昭和43年)12月号、194-217.
鈴木義昭『ピンク映画水滸伝 その二〇年史』(1983, 青心社)
村井実『はだかの夢年代記』(1989, 大和書房)
石井輝男・福間健二『石井輝男映画魂』(1992, ワイズ出版)
桑原稲敏『切られた猥褻:映倫カット史』(1993, 読売新聞社)

追補
ノート1:ブログ掲載後、映画『石井輝男映画魂』の監督である工藤公一氏から「インタビュー等では、”異常性愛路線”の前にはピンク映画は全く観たことはない、ような発言をしておりますが、プライベートでの発言を聞く限りでは、少なくとも新東宝の親友三輪彰監督のピンク映画初監督作品『熱いうめき』(第7グループ事務所映画, 1963)は観ていたようです。 」という情報をいただきました。

(写真は、千草氏ご不満の、二の腕を縛らない磔のシーン)