星野仙一さん

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星野仙一さんの訃報には驚きました。

 

名古屋生まれの私にとって野球シーンで記憶に残るものの最初は、地元のテレビ局が夕方のニュースのオープニングで使用していた1974年のドラゴンズ優勝のシーンでした。

 

この年、先発完投型の投手に贈られる「沢村賞」を受賞し、同時に「セーブ王」にも輝いた星野投手が、最後の打者をサードライナーに打ち取った後、帽子をつかんで振り下ろし、木俣達彦捕手が駆けてくるのを待ち受けて、飛びついてくるその巨体をがっちりと受け止める姿です。

 

投手が捕手に飛びつくイメージと逆で、ドラゴンズはその後も捕手が投手に飛びつく優勝の瞬間が何度もありました。

 

82年限りで引退。

83年3月27日だったと記憶していますが、阪急とのオープン戦での引退試合は私も観戦に駆け付けました。

 

私が大学に進学した87年にドラゴンズの監督に就任。

 

開幕シリーズだったと思いますが、後楽園球場に見に行って、ドジャーブルー導入のユニフォームにびっくりしたのも覚えています。

 

星野さんの監督時代の背番号はずっと「77」。打倒巨人に燃えた人が、その巨人を率いて9連覇を成し遂げた川上哲治さんにあやかっての背番号だと記憶しています。

 

私がアナウンサーになった1991年。まだ球場での取材にほとんど出してもらえなかったので、なかなか近づくことはできませんでした。

 

95年から再びドラゴンズの監督。

当時の広島市民球場のビジターチームは、試合後、3塁側のダグアウトからレフトポール際までグラウンドを歩き、バスに乗るのですが、そこに至るまでのぶら下がりは貴重な時間でした。

特に中継のリポーターを務める日は、(私は3塁側を担当することがほとんどでした)カープのヒーローインタビューが行われている間にぶら下がりでいくつかのコメントを拾いながらレフトのポール際まで行って、ダッシュでバックネット裏のリポーター席まで帰って敗戦監督のコメントを入れていました。

いかに監督の横について声を聴き洩らさないかに腐心しました。

(そのため、中継映像の中によく映っていました)

 

星野監督の声は聞き取りやすかったし、何よりも試合に対する思いが乗った言葉が多かったと記憶しています。

 

その後、タイガース、イーグルスの監督として声を聴くたびに、口調自体は穏やかになりつつあった部分もあったのですが、野球に対する思いの熱さは変わりませんでした。

 

まだまだ野球界に対する思いはいくつも持っていたと思います。

 

残念でなりません。

 

こういった熱き思いの持ち主が、星野さんの遺志を継ぐように現れることを願ってやみません。

 

星野仙一さん、小さいころからファンでした。

ありがとうございました。

安らかにお休みください。