今日の日に繋がる「道」 (長文です) | TAKAHIROオフィシャルブログ「DANCE WORLD」Powered by Ameba

今日の日に繋がる「道」 (長文です)

僕がダンスを始めたのは18歳。大学1年生の春のこと。

体育館の廊下に入ったら背中でグルグル回り踊る先輩の姿に衝撃を受けた。


あの時の新しいドキドキは、これまでのダンスの日々の中で最も大きい気がする。


それから、半年、1年、ほとんど毎日そのグルグル回る技「ウィンドミル」だけを練習し続けた。


周りは3ヶ月くらいで出来ていくのに、僕は全然できなかった。


自分は、なかなか鈍な人間だから、運動の得意な皆より出来ないのは不思議ではなかった。


怪我も一杯した。

途中で、背骨がずれて変な液が背中の皮膚の中で溜まってプクプクになったり、腰を痛めて大学から家まで泣きながら帰ったこともあった。 


いつも、安全な道を選んできた自分が、良く逃げなかったなぁ・・・と思う。


初めてグルグルが出来たのは、静岡の教会で子供たちにダンスショーをする時だった。


ショーの前に練習していて、


「今日は出来る気がする・・・・・・」


と何か確信めいて思った。


そして、やっぱり出来てしまった。


あんなに嬉しかったのは、これまでのダンスの生活の中で一番だ。


到底できないと思ったことが、想い続けて動き続けたら出来た。


母は「やれば出来る」とよく言った。


僕も初めて「やれば出来る」と思った。

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先輩に鍛えてもらって、大学二年の頃に初めてチームを作った。


相方は「タケヤス」。僕と同じろにダンスを始め、目指すものも似ていた。


どんなことがあっても学校の授業を最優先で、何にでも熱く燃える。

運動も得意で、逆立ちもバク宙もお手の物だった。そして音感も優れている。


そんな男。


この2人で作ったチームの名前が「仇桜」(あださくら)


「明日ありと思う心の仇桜」という諺から名をつけた。


「今この瞬間を最高に頑張りたい」「今この最高の瞬間を見逃さないでほしい」


そう願った。



 それから、2004年に大学を卒業するまでに彼とダンスの活動を続けた。


ダンスのスタイルは「えぐい系」などと呼ばれ極めて奇妙なものだったが、活動の日々で仲間も沢山出来た。


「百合の華」(仇桜+北斗+ひとりでできるもん) 

「はむつんゆうきひとりで仇桜」(はむつんサーブ+ゆうき+ひとりでできるもん+仇桜)


など、自分のグループだけでなく仲間たちと一緒に踊ったりして沢山の物を吸収した時期だった。


ひとりでできるもんや、はむつんサーブや無名と言ったグループはあの頃からやっぱり素敵だった。

 


 卒業の時が来た。


タケヤスは夢だった小学校教師になった。


他の仲間のほとんどはダンスを辞め、幾人は当時始まったばかりのダンス番組の出場やコンテストを目指した。


それぞれが違う道。


僕もダンスで新しい道を歩んでみたいと思った。


あの日、初めて出来ないことが出来たように。


どうせならと、世界で一番有名なHIPHOPエンターテインメントコンテストを受けることにした。


それがNYアポロシアターのアマチュアナイト。


こんな無謀な人が一人くらいいてもいいと思った。


もし挑戦に失敗してもきっと気持ちがよい。世界一に負けたのだからダンスを辞める踏ん切りもつく。


行ったときは、家族と親友を除いては誰も期待しなかった。



人生には、やってみなきゃ分からないこともある。



僕は1年間コンテストで勝ち進み、次の年にさらにテレビ版の大会に出場し2006年グランドチャンピオンになった。



このコンテストは一人で踊ったけれど、実は昔タケヤスの作ってくれた音楽を少し使って踊った。

一人でも仇桜の心で踊ったつもりだった。



 アメリカでの道が開け始めた。


ダンスSHOWカンパニー「THE MOVEMENT」に入り、外国人達と舞台を踏めるようになった。


日本では、あの日の仲間たちがテレビ番組で人気になっているのを知って燃えた。


LAからは北斗がテレビコンテストで活躍しているのを聞いて燃えた。


同時に、世界の広さを痛感していた。


自分の思い描く動きに身体が追い付かない。


地味に練習する日が続いた。



2007年、初めて日本で公式な舞台に出演することになった。


「ラプソディ・インブルー」inオーチャードホール。


超一流のバレエダンサー・コンテンポラリーダンサー達との共演だった。


この公演で新しい世界と衝突した。


彼らの美しさ身体能力に驚き

なんで、こんな無茶振りな企画に参加したんだろうと・・・リハーサル開始当初は情けなくも思った


でも、遮二無二駆け抜けた。


自分がここにいる意味、意義。自分だからこそ出来ることを見つけた瞬間だった。



2008年、マドンナワールドツアーが始まった。

「はむつんサーブ」がツアーダンサーに大抜擢、KENTOも参加が決定した。

僕はNYで彼らのニュースを知った。


凄い!!何処までも彼らは凄い!!


やっぱり熱くなった!!


僕も燃えてダンス。「THE MOVEMENT」でオランダツアーが実現した。


2009年2月


久しぶりの友人から一通のメールが来た。

「ラスタ・トーマス」君。

日本の舞台の「ラプソディ・イン・ブルー」で共演した彼だ。


「ある、アーティストがBIGツアーをするらしい。かくかくダンスが出来る人を探していると言うから、YOUを推薦したYO。もし興味があったらこの番号に連絡してみてCYO.」


普段は、バックダンサーの仕事の話には心が動かなかった自分だけれど、今回は何かのサインの気がした。


そして、先方に連絡すると

「今回、はむつんサーブがツアーに参加をしないことになりました。彼らの技術を成せるダンサーを探している」


あぁこの仕事は、絶対自分が取らなければならないと思った。


全然知らない人が彼の踊りをする位なら絶対自分がやりたかった。


でもやっぱりオーディションはきつかった。


世界には上手い人が沢山いるし、僕は振付をこなすタイプではないからこの新しい壁に振り落とされそうにもなった。


日本に行って直接はむつんレッスンも受けに行きました。


そして、今僕はここに居ます。


ダンスを始めたあの日から、 今日の日まで出来事は繋がっています。


人生の道は大いなる未知を開くのだと、改めて思うのです。

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