建仁寺

 

 

臨済宗  建仁寺

 

 

山号 : 東山(とうざん)

宗派 : 臨済宗建仁寺派

寺格 : 大本山

本尊 : 釈迦如来坐像

創建年 : 建仁2年(1202年)

開山 : 栄西

開基 : 源頼家

正式名 : 東山 建仁禅寺

 

 

所在地 : 京都府京都市東山区小松町584

 

 

一般に「けんねんじ」ともよばれる。
京都市東山区小松町にある臨済宗建仁寺派の大本山。
1202年(建仁2)将軍源頼家が栄西を開山として建立。
日本臨済宗の開祖とされる栄西は、初め密教を学んだが、1187年(文治3)にふたたび中国(宋)に渡って
臨済宗黄龍派の禅を学んだ。
1191年(建久2)帰国後、禅を広めようとしたが天台宗徒の反対にあったので、
『興禅護国論』を著して天台側との融和を図ろうとした。
鎌倉幕府の保護のもとに建てられた京都最初の禅院である建仁寺も、このような情勢のもとに、
初めは真言院、止観院を置いた天台、真言、禅、さらには戒をも兼修する寺であった。
栄西の弟子には退耕行勇、了然明全など傑出した禅僧が出たが、いずれも天台、

真言を兼修する禅であった。
1258年(正嘉2)円爾弁円が住持となり、65年(文永2)宋の蘭渓道隆が11世となって

楊岐派の禅を説き、建仁寺は初めて純粋の修禅道場となった。
1341年(興国2・暦応4)に足利尊氏によって五山の第四位に、さらに1386年(元中3・至徳3)
足利義満によって五山の第三位と定められた。
南北朝時代以後、義堂周信、竜山徳見、江西龍派などが住持して五山文学の中心となったが、
応仁の乱(1467~77)により荒廃し、さらに1552年(天文21)兵乱により堂宇を焼失した。
文禄年間(1592~96)安国寺恵瓊が安芸安国寺の方丈を移建し、
また鎌倉の東福寺の茶堂を移して本堂としたのち、ふたたび寺運盛んとなった。
江戸時代には徳川幕府の五山派寺院に対する保護と統制を受け、諸堂の再建、修造が行われた。
本尊は釈迦如来坐像で、脇侍に仏弟子の阿難と迦葉を配している。

建造物のうち、方丈と勅使門は国の重要文化財。
勅使門は俗に「矢の根門」といわれ、平氏の六波羅邸の遺構とも伝える。
仏殿(法堂)の東に二つの鐘楼があり、西の鐘は嘉暦年間(1326~29)に鋳造したもの、
東の鐘は、栄西のときから1日に百八声、陀羅尼経を読誦しながら鳴らしてきたので

「陀羅尼の鐘」といわれ、東山名物の一つとされた。
開山堂は興禅護国院といい、栄西の像を安置しており、
堂の前の菩提樹は栄西が宋より帰国するとき持ち帰ったものといわれる。
そのほか、寺内には中国元から来日した清拙正澄を開基とする禅居庵、

摩利支天の坐像を安置する摩利支天堂、経蔵、浴室などがある。
西側の一帯は昔からの竹垣があり、一般に「建仁寺垣」とよばれる。
塔頭寺院は最盛時には64院あったが、焼失や合併などのため、現在は西来院、両足院、霊洞院など
14院だけが残る。
栄西は中国から茶をもたらし、日本に茶の栽培、喫茶の習慣を普及したといわれ、
4月下旬の開山忌には茶会「建仁寺茶礼」が催される。
寺宝は、俵屋宗達筆『風神雷神図屏風』(国宝)のほか、「十六羅漢画像」「山水図」「竹林七賢図」などの
絵画、明恵上人消息、一山一寧墨跡など数多い。

 

 

『北門』

 

『小鐘楼』

 

『本坊(庫裡)』

 

『玄関』

 

『方丈』

 

『方丈扁額』

 

『方丈向唐門』

 

『方丈の石庭(大雄苑)』

 

『納骨堂』

 

『茶室の東陽坊』

 

『清涼軒』

 

『〇△□乃庭』

 

『方丈の庭(潮音庭)』

 

『方丈の襖絵の雲龍図』

 

『風神雷神図屏風』

 

『法堂』

 

『法堂内陣』

 

『西門』

 

『陀羅尼の鐘』

 

『桑の碑』

 

『茶碑』

 

『洗鉢池』

 

『開山堂 楼門「宝陀閣」』

 

『道元禅師 修行の遺蹟』

 

『三門』

 

『三門扁額』

 

『放生池』

 

『勅使門』

 

『浴室』

 

『境内図』

 

 

 

<塔頭寺院>現在は14院

 

『正伝永源院』

 

『常光院』

 

『清住院』

 

『興雲庵』

 

『堆雲軒』

 

『久昌院』

 

『禅居庵』

 

『大中院』

 

『西来院』

 

『両足院』

 

『霊洞院』

 

『大統院』

 

『霊源院』

 

『六道珍皇寺』