普喜竜馬
反日工作員らしきたかひら 正明様が、こんな天皇を貶める事を発言していると、宮内省や公安に連絡しておきましょう。

 

たかひら 正明
 宮内庁に通報してくれるようだね。
 リベラルな明仁夫妻をはじめ、皇族は、私に勲章でもくれるのではないか?
 そんな大人のおもちゃは、もらうこと自体が恥なので辞退するが。

 

吉良山 博己
たかひら正明は皇室、皇族への不敬を改めるべきである。

 

たかひら 正明
 そんなセリフ、自民・公明・維新の政治家と何度も話してるけど、誰も言わんのだが、彼らも私の「不敬」仲間かね?

 

普喜竜馬
なかなか面白い。しかし、残念ながら今後の議員生命はなくなるね!そのうち、留置場で反省する毎日が待っているでしょう。

 

たかひら 正明
何度もそんな言葉もらってるけど、警察のラブコールなぞ一度もないんだが、ちゃんと通報してるのか?
 虚偽告訴罪を受けるつもりがあれば、告訴・告発状の代書を受任してやってもいいぞ。

 

普喜竜馬
いいところに気がつきましたね。日本は甘すぎるのですよ。偽人権派とか隠れ平和団体とかのさばっているので、これから日本は、そういう奴らを粛清、取り締まらなければならないのです。機密保護法やスパイ防止法等、たかひら 正明様のが頑張りお陰でこれからますます厳しくなってくるでしょう。

 

たかひら 正明
 励ましの言葉ありがとう。
 あなたの意向とは正反対に、リベラルな明仁氏らに伝えといてあげるわ。

 

 

普喜竜馬
リベラルな明仁夫妻と、これはまた面白い印象操作をして来ましたね。
一部将兵の残虐行為とはありますが虐殺とは書いていないし、三笠宮様自身南京に一年間在住してる。
所謂南京大虐殺があったなら、大虐殺があった街に軍が三笠宮様を在住させますかね?
南京で事変当初とあったからって、即虐殺に結びつけるのは無理があると思いますよ。
 
たかひら 正明
崇仁氏は1943年1月に、支那派遣軍参謀に補せられ、南京の総司令部に赴任し、1年間在勤した。
三笠宮崇仁インタビュー「闇に葬られた皇室の軍部批判」より
(聞き手 中野邦観・読売新聞調査研究本部主任研究員) 
 ―最近また南京大虐殺について、閣僚の発言が問題になりましたが、同じような問題が何回も繰り返し問題になるのはまことに困ったことだと思います。三笠宮殿下はこの問題についてどのように受け止められておられますか。
三笠宮 最近の新聞などで議論されているのを見ますと、なんだか人数のことが問題になっているような気がします。辞典には、虐殺とはむごたらしく殺すことと書いてあります。つまり、人数は関係ありません。私が戦地で強いショックを受けたのは、ある青年将校から「新兵教育には、生きている捕虜を目標にして銃剣術の練習をするのがいちばんよい。それで根性ができる」という話を聞いた時でした。それ以来、陸軍士官学校で受けた教育とは一体何だったのかという懐疑に駆られました。
 また、南京の総司令部では、満州にいた日本の部隊の実写映画を見ました。それには、広い野原に中国人の捕虜が、たぶん杭にくくりつけられており、また、そこに毒ガスが放射されたり、毒ガス弾が発射されたりしていました。ほんとうに目を覆いたくなる場面でした。これごそ虐殺以外の何ものでもないでしょう。
 しかし、日本軍が昔からこんなだったのではありません。北京駐屯の岡村寧次大将(陸士十六期・東京出身)などは、その前から軍紀、軍律の乱れを心配され、四悪(強姦、略奪、放火、殺人)厳禁ということを言われていました。私も北京に行って、直接聞いたことがあります。
 日清、日露戦争の際には、小隊長まで「国際法」の冊子をポケットに入れていたと聞きました。戦後ロシア人の捕虜が日本内地に収容されていましたし、第一次大戦の時にはドイツ人の捕虜がたくさん来ていました。彼らは国際法に基づいて保護されていましたから、皆親日になったのです。彼らの中には、解放後も日本に残って商売を始めた人達さえいました。神戸には今でも流行っているパン屋さんやお菓子屋さんがありますね。(「ゆう」注 「ユーハイム」のことだと思われます)
(「THIS IS 読売」1994年8月号 P54~P56)
 
 
陸軍省人事局長の阿南少将(のち大将。終戦時の陸軍大臣)南京視察メモ。
「中島師団、婦人方面(注:強姦の事)、殺人、不軍紀行為は、国民的道義心の廃退、戦況悲惨より来るものにして言語に絶するものあり」
岡村寧次大将のコメント
「宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等から聴取したところを総合すれば次の通りであった。
一、南京攻略時、数万の市民に対する掠奪強姦等の大暴行があったことは事実である。
一、第一線部隊は給養困難を名として俘虜を殺してしまう弊がある。
南京大虐殺事件の中心人物・中島今朝吾第十六師団長の日記:
「佐々木部隊だけにて処理せしもの約一万五千、太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三○○、、、」「大体捕虜はせぬ方針なれば片端からこれを片付ける事とし」(日本語が分かれば戦争で敵を「処理」する、「片付ける」とは何の事か分かるはず)
第十六師団 歩兵第30旅団長・佐々木到一少将の日記:
「俘虜続々投降し来たり数千に達す。激昂せる兵は上官の制止を聞かばこそ片はしより殺戮する」
南京攻略軍総司令官・松井石根大将の談話。
「南京事件はお恥しい限りです、私は日露戦争の時、大尉として従軍したがその当時の師団長と今度の師団長を比べると問題にならんほど悪いですね、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った、ところがこのあとで皆が笑った。甚だしいのは、ある師団長の如きは「当り前ですよ」とさえ言った」
第十軍国崎支隊歩兵第十四連隊の宮下光盛一等兵の従軍日記:
「我が柳川兵団は①民家を発見したら全部焼却する事。②老若男女を問わずシナ人を見たら殺せ、という命令を受けた」
第104師団機関銃部隊の田所耕三一等兵の話。
「捕まえた連中を十人くらいずつ束にして井桁に積み上げて油をかけて燃やしちゃった。『俵縛り』と言ったな。豚を殺すのと同じ気持ちだった。機銃掃射で殺すのもやった、しかし女が一番の被害者だったな。年寄りから何から全部やっちまった。トラックで部落へ乗りつけ、女どもを略奪して兵隊に分ける。十五人か二十人に女ひとり」「見せしめの為に捕虜を傷つける事もやった。耳を削ぎとる。鼻をけずる。目の中へ帯剣を横にしてつっこむ、、、こんな事でもやらないとほかに楽しみがない」
日本陸軍大十軍嘱託カメラマン河野公輝の話(南京攻略に先立つ上海近辺での戦闘で)
「銃剣で刺すなんて生易しいものではなく、棍棒でぶっ殺す。男も女も区別はなかった。バクッと叩くと血がぶあーっと噴き出してね、、、蘇州の女というのがまたきれいでね。兵隊は手当たり次第に強姦して、やったあとは殺していたな」
歩兵第66連隊第一大隊戦闘詳報(日本軍の正式報告書)
「旅団命令により捕虜は全部殺すべし、、、」
山田支隊第七中隊・大寺隆上等兵の日記:
「昨夜までに殺した捕虜は約二万、揚子江岸二ヶ所に山の様に重なっているそうだ。午後七時半、清掃作業に行く。揚子江岸の現場に行き、折り重なる死骸に驚く。午後二時までかかり作業を終わる」