孫子の虚実篇に「千里を行いて労れざる者は無人の地を行けばなり。」(遠い道のりを行軍して疲れないのは敵の間隙をぬって敵対する者がいない土地を行軍するからだ。)という記述があります。

「其の必らず趨く所に出で、其の意わざる所に趨き、千里を行いて労れざる者は無人の地を行けばなり。攻めて必らず取る者は、其の守らざる所を攻むればなり。守りて必らず固き者は、其の攻めざる所を守ればなり。故に善く攻むる者には、敵其の守る所を知らず。善く守る者には、敵其の攻むる所を知らず。微なるかな微なるかな、無形に至る。神なるかな神なるかな、無声に至る。故に能く敵の司命を為す。」


(敵がきっとはせつけて来るような所に出撃し、敵の思いもよらない所に急進し、そのようにして遠い道のりを行軍して疲れないのは敵の間隙をぬって敵対する者がいない土地を行軍するからである。攻撃したからにはきっと奪取するというのは、敵の守備をしていない所を攻撃するからである。そこで、攻撃の巧みな人には、敵はどこを守ったらよいのか分からず、守備の巧みな人には敵はどこを攻めたらよいのか分からない。微妙、微妙、最高は無形だ。神秘、神秘、最高は無音だ。そこで敵の運命の主宰者になることができるのだ。)


本能寺の変の後の豊臣秀吉の中国大返しは有名です。


備中高松城(岡山県岡山市)から山崎(京都府)までの約200kmを10日間で移動しています。


1日に約20km移動した計算になります。


しかもその後に明智光秀と対峙しています。


中国大返しでは裏切りそうな宇喜多氏の領国を通らなかったという話もあります。


豊臣秀吉が中国大返しを成功させることができたのは敵がいないところを移動して戦闘をしなかったからでもあります。


また、孫子は攻撃が上手い人は敵が少ないところを攻撃し、守備が上手い人は敵が攻めてこないところを守備するからだと述べています。


敵が攻めてこないところとは、堅固に見えて敵も元から攻めることを諦めている処でもあります。


孫子は戦闘がいかに人を疲弊させるかを述べています。