1560年6月12日(永禄3年5月19日)に戦国大名の今川義元が桶狭間の戦いで戦死しました。

寄親、寄子制度を設けて農民を大量に動員できるようにしました。

武家にふさわしい合理的な軍事改革の領国経営をしました。

また、外征面でも才覚を発揮して今川氏の戦国大名への転身を成功させます。

三河国を織田信秀に占領されて一度、松平広忠の嫡男の竹千代(徳川家康)は織田信秀の人質になります。

しかし、今川義元は織田信秀の長男の織田信広を生け捕り、竹千代と交換します。

そのことにより今川義元は三河国を支配するようになります。

そして、領土も駿河国、遠江国から、三河国や尾張国の一部にまで拡大し、戦国時代に今川家の最盛期を築き上げます。

今川義元は愚将ではなく、間違いなく名将でした。

しかし、桶狭間の戦いでは、今川軍は砦を次々に占領し、寄親、寄子で集めた大軍は各地に分散していたところを織田信長の少数精鋭の部隊に本陣を突撃されて今川義元は戦死します。

今川義元の本陣は高台にあり、周囲を見渡せる兵法通りの布陣でしたが、当日は雷雨で周りが見えなくなっていました。

一瞬のそのチャンスを織田信長は見逃しませんでした。

そして織田信長は、今川義元から奪った左文字を生涯身につけていました。