齊藤元章著「エクサスケールの衝撃」
 第4章 生活のために働く必要がない社会の出現
 第2項 「お金」から解放される
より


ICTを活用したまったく新しい〝お金〞


 ビットコインが、ICT(情報通信技術)を基盤としてまったく新しい通貨のあり方を、そしてまったく新しい取引の決済手段を提示したが、近く利用可能となるさらに最新のICT(情報通信技術)を用いると、まったく別の「お金」を創造することも、不可能な話ではなくなる。
 以下、その一例として、筆者が考えている新しい「お金」について、ここに紹介してみたい。
 お金は「紀元前1500年頃から使われだして以来、その形や材質、管理方法や決済方法については多くの変遷を遂げていることを見てきたが、筆者はその本質については、あまり大きくは変化してきていないと考えている。
 たしかに、 利子なるものが考えだされ(物々交換の時代から存在していたとの説もある)、国家の信用によって必要な額を発行することが可能になり、信用創造の仕組みで本来の何倍もの価値を生みだす、といった変革はなされてきた。変革という意味では、ドイツの経済学者のシルビオ・ゲゼルが提案した、金利に対抗して時間によって価値が低減する通貨(使用に際して時間に応じた費用が発生し、結果として通貨の退蔵を牽制し、市場での流通を促進し、金利を下げる効果を持つ)などにも、改めて注意が払われて然るべきである。
 しかし、ある視点から眺めてみると、この3500年間にわたって、まったくと言っていいほど、お金には進化していないと言える部分があるのだ。それは、「その使用者が誰であれ、固定した一定の価値しか持っていない」という側面である。
 お金の3つの基本的な性質として、「物の価値を測ることができる」「物と交換することができる」「蓄蔵(貯金)することができる」というものがある。それに加えて「信用機能を有した支払い手段」という機能を4つめの基本的な性質とすることがある。
 この4つの性質を画一的に守ろうとすれば、固定した一定の価値を持たせることは、たしかに必然ではある。しかし、ここではその4つの性質についても、再考を厭いとわないものとする。
 もし「お金」が、それを利用する人によって、異なる価値を持つとしたらどうだろうか。
 
もし「お金」が、支払う対象物によって、異なる価値を持ったとしたらどうであろうか。
 簡単な事例としては、億万長者がパン1斤に支払う金額と、最低賃金で生活する低所得者がパン1斤に支払う金額が、等しくある必然性がはたして本当にあるのだろうか、という命題である。
 消費税率が上げられるたびに、生活必需品や食料品などでは消費税率を低率にして、低所得者への影響が小さくなるようにする(軽減税率)、といった議論がなされる。たしかに欧米諸国では、消費税率は商品によって異なっており、一般的には生活に必要なものについては低く、贅沢品については高く設定されている。しかしそれは、パン1斤を200円としたとき、その10円から20円、すなわち5%から10%といった小さな部分についての話でしかない。
 年収2億円の所得を得る生活者と、年収200万円の所得の生活者であれば、所得差は100倍ではあるが、実際には税金や年金、健康保険料などの非消費支出を除いた可処分所得から、さらに最低限の住居にかかる金額や、最低限の衣服の購入代金などを除いたなかから、パン1斤を買うお金を捻出しなくてはならないので、そのために利用できる金額の差は、200~300倍になるのではないだろうか。そのとき、パン1斤の価格差が同様に200~300倍あったのでは、たしかに努力をして所得を増やす意味や気力がなくなってしまうが、価格差が20~30倍であってはならない理由はあるのだろうか。あるいは、少なくとも2~3倍の価格差でないのはなぜであろうか。
 その理由は、おそらく2つ考えられる。
 1つ目は、すでに累進課税制度による所得税を課されているので、高所得者ほど高い税率で多額の税金を納めており、そもそも可処分所得が大きく減らされている一方で、低所得者の場合は、最低税率適用所得以下であれば、所得税はかけられていないので、その段階ですでに十分な優遇が得られている、という理由である。
 たしかにそれは事実ではあるが、日本の場合、現在の所得税の最高税率は40%であり、2015年から45%に上げられるものの、それでも50%以下である。現時点では、年収が2億円の人の可処分所得は1億2000万円から年金や健康保険料等を引いた金額であるので、1億1000万円を下ることはないであろう。住居費と衣服の購入に、かりに年間2000万円をかけたとしても、食費にかけられる金額として、9000万円は残る計算である。
 一方で、年収200万円の人は、所得税はほとんどかからないものの、それでも年金と健康保険料は一定額が発生するので、可処分所得は180万円程度と考えられる。家賃が5万円のアパートに住み、毎月2万5000円で衣服や交通費や光熱費を賄ったとすると、年間90万円の費用である。すると、食費として残る金額は90万円と計算される。
 たしかに、累進課税制度による所得税納税後では、200~300倍までの差はないということになるが、やはり100倍もの差が生じているのは事実であるから、パン1斤に支払う金額の差を、せめて所得差の10分の1である、10倍程度に設定してもよいのではなかろうか。
 しかしよくよく調べてみると、現実はもっと酷い状況であることがわかる。たしかに所得税の累進課税は最高税率が40%と、高所得者に対して高い税率を設定している。ところが、実際の所得税の負担率を見ると、最も負担税率が高いのは、所得が1億~2億円の納税者であるが、その負担税率は26%程度でしかない。2億円を超える納税者では、累進課税であるどころか、逆累進課税でどんどん負担税率が下がっていき、なんと、100億円を超える所得の納税者の負担税率は14%程度まで下がってしまうのである。
 これは、土地や建物の譲渡所得や株式等の譲渡所得では、税率が大幅に優遇される分離課税が適用されるのだが、それは所得額にかかわらず定率であり、累進性がないためである。これは、とても大きな問題である。
 かりに所得が200億円の人がいたとする。可処分所得から住居費と衣服等の費用を除いた金額は、おそらく160億円は下らず、年収が200万円の人が食費に回すことができる金額の90万円と比べて、1万8000倍もの余裕があることになる。なんと、所得額の差が1万倍であるところ、むしろその差がさらに大きく広がってしまっている。この事実を見ても、累進課税制度が十分に機能しておらず、高所得者は高い税率で納税しているので生活必需品であっても低所得者と同じ金額を払えばよい、という論理は成り立たないことが明らかである。
 次のもう1つの問題は、かなり大きなものである。それは技術的な問題である。
 かりに、パン1斤に支払う金額を、支払う人によって変えることになったとしよう。前年の所得が200億円もあった人と前年の所得が200万円だった人では、パン1斤に支払う金額は、所得の差が1万倍であるところを、その10分の1の差の1000倍の価格差が設けられたとする。しかし、実際問題として、どのようにその支払い処理を行ったらよいであろうか。
 パン屋さんの店頭を想像してみよう。
 ある日の朝、1人の身なりのよい初老の紳士と、まだ就職して2年目の1人の若いサラリーマンが、ほぼ同時に街中のパン屋さんに朝食に食べるパンを求めてやってきている。どちらも焼きたてのパン1斤をトレイに載せて、レジの前に並んで精算する段になる。
 若いサラリーマンは、小銭入れから200円を取りだして、あっという間に精算をすませてしまい出口に向かっていった。しかしその初老の紳士は、販売価格が「200円」と表示されているところ、その1000倍の20万円を支払わなくてはならないのだ、1万円札を20枚も持ち合わせると当然に財布が厚くなってしまうので、仕方なくクレジットカードを取りだして、支払い処理を行う。サインもしなくてはならないし、レシートも複数枚になってしまい、煩雑きわまりない。しかし、レジを打っていた女性の店員は、顔を少し紅潮させて満面の笑顔になっている。
 「どうしましょう。今日はもう売上げのノルマの2倍を達成してしまったから、開店間もないけれど、お店を閉じてしまってもよいくらいね。とってもありがたいお客様だわ」パン1斤を買って、それに1000倍の金額を支払う側については、これで問題はないであろう。しかし、パン屋さんのほうはどうであろうか。これでは、あまりに不公平感があるのではないだろうか。
 幸運にも、所得が高いお客さんがパンを買ってくれた場合には、その日の1日分どころか、1
週間分の売上げが立ってしまうことも十分に有り得る。それでは、健全な勤労意欲を維持するのが難しくなり、なによりも世の中のあちこちで、日々、大きな不公平感が渦巻くことになる。これでは、とても健全な社会とは言えない。
 したがって、支払いを行う側は、きちんと所得に見合った高い金額を支払う必要があるのだが、その支払いを受ける側は、誰から支払いを受けても、同じパン1斤であれば、同じ金額での支払いを受けるべきである。その仕組みを、実現しなくてはならない。
 これについては、現在でも、たとえば生活クーポンといった補助通貨的なものが利用されてはいる。所得の高い人に高い金額を支払ってもらうのではなく、所得の低い人たちに、クーポンを支給して、生活必需品などの購入時にその一部を補助するという仕組みである。支払いを受けた側は、そのクーポンを現金に換金することで、所得の高い人からも所得の低い人たちからも、同じ金額を受け取ることができる。
 問題は、支払い時のクーポンの利用と、支払いを受けた側のクーポンの換金の手間である。しかし、この方法では、所得の低い人たちを補助することはできても、クーポンの支給を受けない高所得を得ている人たちが、すべて一律の扱いになってしまうという、大きな問題が解決されない。1000万円の所得を得ている人と、100億円の所得を得ている人が、1斤のパンに支払う金額が同じままなのである。この問題を、なんとしても解決しなくてはならない。
 そこで、サトシ・ナカモト氏がこれまでの常識や慣習にとらわれず、ICT(情報通信技術)を使って、ビットコインでまったく新しい通貨を創造したのと同様に、これまでの「お金」の特性をいったん忘れ、間もなく利用可能となるICT(情報通信技術)を前提とし、新しい紙幣を想像してみることにしたい。


 「新しい紙幣が使われる日


 ここに1枚の真新しい紙幣がある。今日から使用されることになった新しい紙幣である。
 私は朝一番で最寄りの都市銀行に立ち寄って、10枚ほどの新札を、古い紙幣と交換してもらった。そのうちの1枚を、財布から恭しく取りだして、しげしげと眺めている。
 一見すると、これまで我々が長い年月使用してきた紙幣と少しも変わらない外観であり、折り畳んで財布にしまうことも可能である。唯一、折り畳みが禁止されている部分があって、そこだけわずかに硬いようにも感じられるが、気になるというほどではまったくない。これまで新札を手にしたときも、少し厚く感じたり、硬く感じられたりしたことがあったように、それも単なる思い込みだけなのかもしれない。
 この新しい紙幣は、新たに強力なセキュリティ機能が付加されているという。なんと、紙幣がその所有者や使用者を、常に認識してくれているのだという。
 「いったい、どうやって?」
 たしかに、今となっては、我々はあまりに数多くの個人識別可能な情報と信号を身につけてしまっている。一昔前に誰もが持っていたスマートフォン、そのすべての機能が集約されて、いまやコンタクトレンズ型になった「INAID(Intelligent Network Access Implanted Device:知的ネットワーク接続インプラント装置)」は、常時、3つないし4つのネットワーク接続を保持して、あらゆる外界との情報通信を我々が気がつかないうちに行っており、我々の意識とインターネットの接続により、必要とする情報や、検索の結果や、画像や、動画や、音楽や、ヴァーチャル・リアリティ体験のすべてが、リアルタイムに提供されるようになった。
 コンタクトレンズ型の他にも、たいていの人が3つや4つ、多い人では2桁を超えるINAID(アイネイド)を、常時身に纏い、あるいは皮下に埋め込んでいる。そして、そのほとんどは24時間、365日の連続稼働状態である。我々の生体情報は、複数のINAIDによって常にモニタリングされており、微かな異常や不調、病気の兆候であってもはるかに前の段階でこれを検出して、適切な指示を出してくれる。
 ほとんどのものが自動化、ロボット化されて、我々人間が生活している空間のすべてが、無数のカメラとセンサーでモニターされ、記録されて、即時に分析されているおかげで、事故や事件、犯罪といった類のものは、以前と比べて激減していた。
 それでも万が一、我々に危険が迫るようなことがあれば、INAIDはその危険を報せながら、最も確実な危険回避方法を取るべく、我々の肉体に緊急回避行動を取らせるための神経刺激信号を発してくれる。
 そんな具合であったから、ちょっと考えれば、この新しい紙幣が私のいくつかのINAIDとも何種類かの通信を確立して、情報をひっきりなしにやりとりしているのであろうことは、考えるまでもないことに思われてきた。
 もっとも、そうした新しいデバイスに頼らずとも、我々の人体は、精神活動では複雑な脳波を、収縮している心臓は心電波を、筋肉を動かせば筋電波を体外に放出しつづけており、それらを簡単にセンシングできるようになった現在では、そのいくつかを組み合わせることにより、特定の個人を100%の精度で識別することなど、いとも簡単な話ではあったのだ。
 「そういえば、前のお札には指紋認証の機能が付いていたんだっけ。指紋認証っていう響きも、もうすっかり古めかしく感じられるなあ」
 残念ながら、今回の新しい紙幣の流通に合わせて廃止されてしまったのだが、最初にその機能が付加された紙幣を使用したときは、ちょっと驚いたものである。何せ、使用するときには紙幣のある部分を親指で軽く触れてやらないと、使用することができないのである。そうして使用者を認識して、正当な保有者であるかどうかを判断できるようになったことで、詐欺事件や金融犯罪、違法薬物や銃器などの売買が、あっという間に、見事に駆逐されてしまった。
 その紙幣には、紙幣が発行されてからの使用履歴が、支払者と被支払者の情報を含めてすべて保存されており、また新たに使用されるたびに、その全使用履歴が中央銀行のサーバーに転送され、過去の使用履歴と合致するかどうかが瞬時にチェックされていた。したがって、偽札などというものも作製のしようがなくなってしまい、不正使用も不可能になってしまったのだ。
 最初のうちは、使用するたびに親指を軽く触れてやる動作が面倒で、やや閉口してしまったが、それに慣れるのに、結局1カ月も要しなかった。そして、紙幣に指紋認証機能が内蔵されたことなどは、しばらく後にはまったく意識しなくなっていたほどだった。ただ、こんな素晴らしい世の中になったにもかかわらず、悪いことを考える輩はいまだ残っているようで、しばらく前に、指紋を偽造して不正利用を行った事例が見つかった、というニュースが流れていた。その犯人は、その紙幣が次に使用されたところで不正利用が発覚して、あらゆる情報を総合的に解析した結果、簡単に個人とその所在場所が特定されて、 呆気なく捕まってしまった。
 「犯罪なんて簡単に発見されてしまい、一瞬で摘発されるのがわかっているのだから、まったく割に合わないはずだ。そもそも、そんなことすら必要のない世の中になったのに、いったいなぜだろう」
 その犯人の心理や動機などは、とうてい、理解しようもなかった。ただ結果としては、そうした犯罪を誘発してしまい、1人の人間を犯罪へ走らせてしまったことへの社会的反省から、今回の新しい紙幣への切り替えが、予定より2年も前倒しで進められたのである。
 この新しい紙幣では、偽造やなりすましなどの一切の犯罪行為が絶対に不可能となる、非常に強力な個人識別機能を新たに実装したのだという。なんでも、その個人の紙幣の利用行動までもすべて解析して、使用者本人の行動と整合しているかどうかを常に確認しているのだという。それ以外にも複雑な個人識別方法を多数用いているそうだが、それらは当面の間は非公開とされている。


使用する人によって金額が変わる紙幣


 そして今回の紙幣では、強化されたセキュリティ機能の他にも、まったく新しい機能が付加されたのだ。それは、使用するときに、紙幣に表示されたその紙幣の「額面が変わる(!!)」というものである。紙幣が使用されるときにその価値を柔軟に変える、というのは歴史上初めての試みであるそうだ。
 例外としては、1932年から1933年にシルビオ・ゲゼルの「時間とともに減価する紙幣」を実践したオーストリアのヴェルグルという町の地域通貨などが、記録には残っている。
 しかし、それらは単に価値が一定の速度で漸減するだけのものであり、非常にシンプルな仕組みで、柔軟性などは皆無であった。今回の紙幣の場合は、紙幣がその使用者を個人識別して、その属性(前年の所得や家族構成や、社会貢献度、賞罰の有無など)を判断する。そして、購入する際には、それが生活必需品などであれば、低所得者の場合には紙幣の額面が増え(!)、高所得者の場合では額面が大きく減る(!)のである。
 たとえば、すでに退職して年金で生活しており、昨年の所得が120万円であった老人が200円のパン1斤を購入するときに、この新しい紙幣は、もともとは1000円の額面表示であったものが、瞬時に1万円にその額面表示を変える。別にデジタル表示のように見えているわけではなく、額面印刷部が自然に変わるので、なんらの違和感も感じられない。
 その老人が200円の支払いを終えてパンを受け取ると、レジには200円が入金され、その紙幣の額面表示は9800円に変わっていたのだが、パン屋さんを出たところで、さらに980円の表示に変化していた。結果としては、20円で200円のパン1斤を購入できたことになる。
 昨年の所得が1200万円あった個人事業主は、パン屋さんに入ったところで手持ちの1000円紙幣の額面表示が500円に変わっていた。200円の支払いを終えてパン1斤を受け取ると、その紙幣の額面表示は300円となり、店を出ると同時に600円になっていた。200円のパン1斤を400円で購入したことになる。
 昨年の所得が1億2000万円あった上場企業の会社経営者は、パン屋さんに入ると精算のために財布から1万円紙幣を取りださなくてはならなかった。200円のパン1斤を買おうとすると、1万円の額面表示が1000円にまで減らされてしまった。これで200円のパン1斤を買うと、実際には2000円を支払うことになる。しかし、パン屋さんのレジには200円が入金されたという表示しか残っていない。
 しばらくすると、生活保護の受給者が同じパン屋さんにやってきた。彼が持つ紙幣には額面が表示されてはいない。しかし、パン屋さんに入って、パン1斤を持ってレジの前に来ると、その紙幣には200円の額面が表示されている。パン屋さんのレジに200円が入金されると、その紙幣は再び額面が表示されないものとなった。
 彼は店を出る前にちょっと考えて、仲間の分のパンも買って帰ろうと思い立った。そこで、踵を返して、もう1斤のパンを抱えてレジの前に立つ。すると今度は、紙幣には100円の額面しか表示されていない。仕方なく、彼は手持ちの100円を足して精算をすませた。試しにもう1回、さらにもう1斤のパンを抱えてみたのだが、そのときには紙幣に0円の額面が表示されるだけであった。彼には、この紙幣がその使用者を認識するだけでなく、何を購入しているのか、そしてそれをどれだけ購入しているかを認識して、価値を刻々と変えていることが理解できた。
 すなわちこの新しい紙幣は、使用する人によってその価値を変えるだけではなくて、使用する対象物やサービスによっても価値を変えるし、さらにはその利用頻度や利用形態によっても、柔軟にその価値を変える仕組みが備えられているのである。
 高額な所得を得ている人は、生活必需品については通常の数倍から、所得によっては数十倍もの高い価格を支払わなくてはならない。贅沢品と見なされるものについては、たとえば、所有する自動車も1台目であれば通常の価格を支払えばよいのであるが、2台目は2倍の価格を支払う必要があり、3台目には4倍もの価格を支払わなくてはならないのだ。これは、高額な不動産物件などについても同様の扱いである。
 通常の所得を得ている人についても、競馬や競輪などに出かける場合、1週間で2回目になると馬券や車券の価格が2倍になり、過度のギャンブル依存を抑止するように配慮されている。
生活保護の受給者については、そもそもパチンコ店や競馬場や競輪場に入ったところで、紙幣の額面は0円を表示しつづけて、一切の支払いを行うことができない。
 これは、なにも前年度の所得による話だけではない。アルコール依存の症状が認められる人では、1週間に一定量以上のアルコール製品の購入となると、5倍以上の価格を支払う必要に迫られて、購入を断念せざるを得なくなる。糖尿病の診断がなされている患者さんであれば、糖分を多く含んだ製品を制限量以上に購入しようとすると、高い価格が提示されてしまうのだ。浪費癖がある人に対しては、その人の行動パターンを分析して、必要以上に過剰に製品購入をしようとしていたり、その月の購入額がその人の許容値を超えようとすると、生活必需品以外のあらゆる物の価格が急激に跳ねあがることになる。
 以上のように、この新しい紙幣は、まったく新しい「お金」の仕組みを導入したものであり、世の中に長く蔓延していた不公平感と格差に対する不満を和らげるのと同時に、消費者の健康と健全な生活を守る役割も担い、さらには社会における過剰消費と、その裏にある過剰生産を抑制して、廃棄物量の削減と資源保護、地球環境保護の効果も狙ったものなのである。
 さて、こうした仕組みを実現したとしても、所得の高い人の中でも高い価格を支払うことを避けるために、所得の低い人に頼むなどして、通常の価格で物を購入しようする人が出てくるかも知れない。あるいは、安価で購入した物品、ないしはほぼ無料で入手した物品を横流しするなどして、利益を得ようとする人が出てくることは、当然に想定された。
 しかしながら、一般化した個人識別のためのINAIDと、一昔前にはIoT(Internet of the Thing)などと呼ばれた、殆ど全ての物品にインターネット接続機能が付加された状況が当たり前となった今日、更には緻密なプロファイリングで、通常ではない行動パターンが簡単に検出されてしまう現在では、そうした不正行為などはいとも簡単に摘発されてしまい、莫大なペナルティを課されてしまう(以後の購入には、それまでの何倍もの支払金額を要求されてしまう。ないしは所有するお金の価値が大きく減価させられてしまう)ことから、所得の高い人であっても、低い人達であっても、そうした試みを行うような人などは皆無なのである。


税金の新しい徴収法にも


 「実に斬新であり、素晴らしい紙幣じゃないか。ところで、この新しい紙幣を使ったときに、本来の商品の価格以上に支払われた『お金』というのは、いったいどこに行くのだろう?」
 当然の疑問である。この新しい紙幣では、支払う側はいろいろな状況と条件によって、本来の商品やサービスの価格以上に、時にはかなりの高額な金額を支払うことになる。しかし、その支払いを受領する側が受け取る金額は、従来のままであり、その本来の商品やサービスの価格だけである。その差額は、日本国内の経済市場全体では、莫大な総額になるであろう。
 実はその差額は、支払いが行われた瞬間に、その都度、政府の口座に振り込まれているのである。厳密にいえば、その大半は国に、一部は地方自治体に振り込まれる。
 そう、これは新しい納税(政府から見れば徴税)、すなわち税金を納める仕組みでもあるのだ。現在の税制は、先ほど例示したように、累進課税制度がうまく機能しているとはとてもいえず、格差の拡大を助長しているとすら言える。また、脱税や節税、といった言葉が頻繁に聞かれるように、徴税については、元来が非常にコストと人的リソースを要するものであるし、不法行為を発生させてしまう可能性が完全には排除できない。また、きちんと納税をしている人にとっては、不正に納税を逃れているケースがあるというのは、きわめて大きな不公平感を抱かされるものであろう。社会的に健全ではない状態が存在していることは明らかである。
 そこでこの新しい紙幣は、納税(徴税)に代わる役割をも担っていて、すなわち、「税金」という存在自体をなくしてしまうという、とても大きな役割も持ち合わせていたのである。
 その逆に、増えつづける生活保護受給という問題についても、一石を投じている。すなわち、生活保護の受給金額を最低限にまで抑えて、その代わりに生活必需品については、無料であるか非常に低廉な価格で購入ができるようになっている。
 もちろん、無料である商品だからといって、必要以上の量を得られるわけではなく、一定量以上は有料になり、さらに量が増えると価格は上がっていく。そして、ギャンブルなどには生活保護受給で得たお金を使用できないようにして、生活保護状態からの早期の脱却を促しつつ、一般の納税を行う国民からの不平感も減じている。
 生活保護受給者が無料で商品を購入したり、年金生活者などの低所得者が表示価格よりも安く商品を購入したりする場合には、当然ながらその差額は国から補塡されることになるが、この金額は表示価格よりも高い金額を支払う高所得者の方々が、間接的に負担していることになる。
 いずれにしても、多々問題が指摘されてきた生活保護というシステムも、この新しい紙幣の運用が開始されることによって、相当部分の問題が解消されることが期待されているのだ。
 加えて、これまでの「お金」には「退蔵」という、避けては通れない本質的な大問題があった。お金が様々な経済活動や投資活動に使用されずに、単純に銀行の定期預金や普通預金に長期間預けられていたり、あるいは自宅や会社の金庫に保管されていたりする問題である。
 たとえば、家計だけを見てみても、日本の場合はその総額が2014年3月末時点で865兆円(現金、預金)に達している。そして、50代以上の人が保有する割合がその8割超で、4000万円以上を保有する1割の人が、その4割を保有しているという内訳である。
 高齢者については、生活必需品や老後に必要となる医療や介護といったサービスの価格を非常に小さく設定することで生活の不安を取り除くことができるため、そうした蓄えられている資金を積極的に社会に還流してもらうことが望ましいであろう。
 シルビオ・ゲゼルの減価する通貨の発想も、そうしたお金の退蔵を抑止して、経済活動を活性化させることが、その目的であった。この新しい紙幣では、所得が高い人と、さらには貯蓄が多い人については、その貯蓄額が時間とともに減じられる仕組みを組み込んでいる。そして、これまでの累進課税制度と同じ理屈で、貯蓄額が大きい人であればあるほど、その価値低減の速度が速く設定されているのである。その結果としては、ある一定額以上の貯蓄をしていても、急速にその額が減ってしまうので、その前に消費活動や投資活動に使ってしまおうという動機づけとなり、経済循環が大幅に改善される効果が期待されている。
 「なんとも凄い『お金』ができたものだ。今年からはもう、税金を納める心配をしなくてもよくなるなんて。しかも経済循環も好転して、この新しい『お金』で、社会全体が大きく変わることになるのだな」
 そう言って、古くからある紙幣とはそう大して見映えは変わらない、手の上に置いたその新しい紙幣を、再びしげしげと眺めてみる。
 「やがてこの紙幣が、さらに次の新しい紙幣に切り替わる時分には、もう今のこの見慣れた紙幣の形ではなくなっているのかもしれないな。もしかしたら、紙幣はその時点では、『形』などというものを、もはや持っていないのかもしれない」
 「そうすると、我々は近い将来、『そういえば昔は、紙幣とか硬貨とか“通貨”なんて呼ばれていたもので支払いをしていたよね』などという会話をする日が、いずれやってくるのだろう」
 そんなことを考えながら、私は、その紙幣を初めて使用するために、近くの美味いしいパン屋さんに、焼き立ての香ばしいパン1斤を求めに向かうことにした。

 このフィクションのなかで想像したことのすべては、実は技術的には現時点でもほとんどが実現可能なものばかりである。ただし、その処理速度が問題であったり、INAID(アイネイド)と呼ばれる知的ネットワーク接続インプラント装置が大きかったり高価であったりするために、現実的ではないというだけの話である。
 ご想像されるように、これらの問題は早晩解決が可能である。次世代スーパーコンピュータが処理速度の問題を易々と解決し、さらにはINAIDの開発においてもナノテクノロジーやマイクロマシン技術、新しい高感度のセンサー技術、超高性能蓄電池技術などのすべての研究開発を支援するため、かなりの短期間でこうしたシステムを構築し、新しい紙幣が流通して利用可能となるはずである。もしかしたら我々が暮らす日本の次の1万円札が、すでにそうした「新しい紙幣」であるかもしれないのである。

 

お金に支配されている現代


 次には、さらにその先の状況についても、考えてみたい。
 今見たように、ICT(情報通信技術)が進歩して、それを全面的に活用した新しい紙幣が創造されると、現在の社会にある様々な不公平感や、拡大する格差への不満を解消することができて、さらには使用者の健康や健全な生活を支援して、過剰消費・過剰生産を抑制して、地球環境の保全にも貢献できることになる。
 そうすると、我々が3500年間もの長きにわたって「お金」に対して抱いてきた、いわゆる、「お金に縛られている」「支配されている」といった感覚が、かなり緩和されるものと期待される。
しかしながら、ロシアの文豪トルストイが、「お金とは新しい奴隷制度の形である」と述べているように、現代社会においては、非常に多くの価値観がお金に依存していたり、社会の評価基準の多くが、お金を尺度として成立してしまっていたりする。
 現実問題として、お金がなければ生活が成り立ちはしないし、多くの理由がお金の問題に起因して、日本においては現在も毎年3万人近い人が自らの命を絶ってしまっている。我々は、お金を使って日常の生活を送っているが、半面、お金によって制約され、お金に振り回され、お金に生殺与奪の権を握られてしまっているようにも感じられなくはない。常に毎月の収入と支出に、細心の注意を払って生活している。ローンの残額やクレジットカードの引き落とし額、税金の支払額などを気にしなくてもよい人は、かなり少ないのではないだろうか。
 ところで、世界の年間の総生産額は、約7250兆円(2012年、1ドル=100円換算)である。1日では約20兆円の生産活動が行われている計算になる。また、地球の総人口である72億人で割れば、地球上の一人ひとりが1年間でほぼ100万円の生産を行っているとも理解される。
これと比較して、金融取引の代表例である外国為替取引の1日の取引額は、どれほどだろうか。なんと、667兆円(2013年、1ドル=100円換算)である。これに加えて、膨大で複雑な種類が存在するデリバティブ取引を加えると、その金額は1日あたり1000兆円の規模であると考えられる。
 地球上に生活する72億人の実体経済の総合計が1日あたり20兆円であるところ、金融経済のそれは1000兆円という、とんでもなく巨大な規模である。すなわち、実体経済の50倍ものお金が、金融経済では動かされているのである。この比率を見れば、金融経済で何か小さな問題が生じただけでも、実体経済はとんでもない規模で影響を受けかねないことが理解されるし、万が一に「金融危機」なるものが発生した場合には、その50分の1の規模しかない実体経済などはひとたまりもないことが容易に想像できるというものである。
 ではなぜ、このような歪な状況が生じてしまっているのだろうか。先に貨幣の歴史を簡単に振り返ったなかで見たように、「信用」という概念が生みだされ、「信用創造」という手法で、実際に発行されている何倍、何十倍もの金額が取引可能となり、さらに本位制度が破棄されて、管理通貨制度へ移行したことにより、各国の中央銀行で無制限に通貨の発行が可能となったことが、その原始的な原因であろうとの推測は、なんとなくつくだろう。
 しかし筆者は、経済学の専門的な知識は有していないので、ここではこうした問題に警鐘を鳴らしつづけた先達にご登場を願って、意見を拝聴させていただくこととしたい。
 1995年に生涯を閉じたドイツの作家、ミヒャエル・エンデ氏である。エンデ氏の代表作である『モモ 時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語』は30カ国以上で翻訳されて、ベストセラーとなっている。また、祖国ドイツでは、時の大統領が弔辞で「今の我が国の国民で、エンデ氏の本とともに成長した記憶を持っていない人はいない」と述べるほどに、普遍的な作品と影響を遺した偉大な作家である。
 エンデ氏は、「現代社会では科学技術が急速に発達した結果、いまや物が溢れている。しかしそのなかで、人々は本来の心の豊かさや生きる喜びを見失っているのではないか」「環境、貧困、戦争、精神の荒廃などの現代の様々な根源に、お金の問題が潜んでいる」と、問いつづけ、訴えつづけた人であった。

(本文315-337ページより引用)