いつも始発で行くため駅にはかなり早く着きます。
昨年から大々的な駅の工事があり、朝の改札口にはその工事の人たちがたくさんいます。
たまたま新人さんなのか、工事でどかした看板を、いつもある位置より少しずれて戻していました。
すると
その人がいなくなってから、同じく朝早く来ている常連さんが、わざわざそれを直しに行きました。
自分は
「明日その新人さんが来た時どんなことを感じるかぁ」
と想像しました。
ある時、あるお茶会でウェルカムドリンクならぬ、ウェルカムフラワー(迎え花)が萎れていました。
それを見つけた御婦人が
「萎れている、亭主に早くこのことを伝えなければ」
と水屋へ行こうとします。
いゃ、ちょっと待ってその「行為」は正しいの?
その御婦人は、これから来るお客様に、亭主の「不手際」がわからないように早く伝えたかったのでしょうが、その「行為」(伝えに行く)自体が亭主に恥をかかせる行為なのです。
そんな時は
「あらっ、お辞儀してくれいる」
と思えばいいのです。
そしてもしかしたら
それもひとつの「趣向」なのかもしれません。
ある日、秀吉が利休の朝顔の噂を聞いて訪ねると全ての朝顔が刈られており、秀吉は腹を立てます。
しかし、茶室に入ると、床の間に見事な朝顔一輪が飾ってあり、利休の美意 識にいたく感心したといいます。
また
小堀遠州の案内で後席に入って見ると、床にはあるはずの花入れが掛けられず、土壁には水が打たれているばかりです。
いぶかしく思って、 遠州に尋ねると、雨に洗われた木々の緑の美しさを目にした方々にありきたりの花を 活けても、と水だけを打っておいたとの答えが返ってきました。
上林竹庵たちは、遠州の 心に感嘆して、京都でこのエピソードを披露したそうです。
すると、雨さえ降れば、 京都の茶人は壁に水を打つばかりになってしまったとか。
朝顔を刈り取ってしまったことも、花を生けなかったことも、全ては「趣向」だったのです。
だから
「何故朝顔がない」とか「花がない」などとすぐに言っていたら、言った本人が恥ずかしい思いをするばかりか、その茶席全てが台無しになってしまうのです。
日々も茶会です。
朝の新人(だと思われる)が看板をずらして置いたのも、何かの不都合で今後はその位置にしょうとしたのかもしれませんし、違う何かの理由があったのかもしれません。
そのことも知らずに、常連さんは「小さな親切」のつもりなので直したのでしょう(直した後のドヤ顔に出てましたw)
でも、そもそも看板の位置を直すことにどんな意味があるのでしょうか。
差し迫った危険があるわけでもないので、その「直す」行為は「自分勝手」ということになります。
そして
動かした新人さんの理由や気持ちを深読みしてしまいます。
察するに
そのような行為に走る人は決まって「自信家」です。
周りの状況に関係なく、自分の「行為」が全て正しいと考えています。
そして周りの人にも
「自信を持て」
と言います。
世の中を見渡せば「自分は正しい」という「自信」が、今でも終わらない戦争、紛争のもとになっていているというのに。
一旦自信を持つと、もう他の人の意見は聞かなくなってしまい、手がつけられません。
「自信」ではなく、「深読み」こそこれからは必要な資質だと思います。
「間違っている」と感じるのは自分の価値感だから、その前に「何故相手はそうしたのか」をちょっとでも考えるべきです。
そしてそれは「共感」になります。
とはいえ
利休や遠州のような「趣向」は、いくら「深読み」したところでわかるはずもないので、そんな時は「深読み」するだけ疲れます。
ただ、絶対してにしてはいけないことは「自信」を持って「改めること」です。
でも実際は
「自信」を持てば、相手の意見など聞かなくいいのですから、とにかく「楽」だし「絶対に傷つきません」
「深読み」することになると、「必要のない深読み」か「するべき深読み」か、の区別は必要となるし、色々と面倒なことになり、たまに自分も傷つきます。
それは確かに大変ではありますが
「深読み」をし「共感」しない「自信家」ばかりになったなら、きっと大きな争いが起こり、人類はいづれ滅んでしまうような気がします。
そして
それはもうはじまっているのかもしれません。
「深読み」していることは人のことを考える人で、共感力もあるので、安易に間違った「自信」などを持つ必要はなく、ただその「深読み」を自由に使える「工夫」を考えた方がいいと思います。
「自信」を捨て「深読み」をして、人々に本当の癒しと優しさを与えていって下さい。