堯天山佛牙院鳴虎報恩寺の故事と桃山時代の遺構 | 京都の春夏秋冬とプラスα

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通常は鳴虎報恩寺(なきとらほうおんじ)と呼ばれているが、正式名は「堯天山 佛牙院(ぎょうてんざんぶつがいん) 鳴虎 報恩寺」。このように山号の堯天山に加え、院号の佛牙院を付した長い正式名を持つ寺院は珍しい。先日、上京区にあるこの寺を訪れる機会を得た。

寺名の鳴虎の由来、「撞かずの鐘」の故事、桃山時代の石橋と擬宝珠(ぎぼし:橋の欄干の飾り)を知った。(なお、報恩寺は通常は非公開)

□ 創建地から現在地への移転
報恩寺の所在地に目を向けると、パンフレットには表参道(東門)は小川通寺之内下ル射場町579、裏参道(南門)は上立売通堀川東入ル堀之上町15と記されている。所在地名が異なる2ヶ所の参道に、往時の寺域の広さの名残りを見て取れる。

報恩寺の創建は不詳であるが、戦国時代の1501年に後柏原天皇(在位1500~1526年)の勅命で浄土宗の寺院として整えられた。創建時から室町時代の中期までは一条高倉付近(現在の京都御苑内)にあった。

その後、豊臣秀吉の都市改造政策の一環で洛中に散在していた寺院がを強制的一つの通り、町通と寺之内通に集められた。この秀吉の寺院政策によって報恩寺は創建の地から現在地に移転した。

□ 寺名「鳴虎」の由来
寺宝の一つに「鳴虎図」がある。これは創建時に後柏原天皇報恩寺に寄進された中国伝来の大掛軸〔縦約1.56m・横約1m〕。報恩寺をたびたび訪れていた秀吉はこの掛軸が気に入り、ゆっくり鑑賞したいとの思いから聚楽第へ持ち帰った。

ところが毎夜大きな鳴動がおきて眠れなくなった秀吉は、虎が寺に早く帰りたいとの思いと考え早々に軸を返したという。この逸話から報恩寺は「鳴虎」と呼ばれるようになった。なお、この鳴虎図のデジタル複製画像を客殿の部屋で見ることが出来る〔撮影禁止
▼客殿前の枯山水庭園

□ 悲しい故事を伝える「撞かずの鐘
平安時代後期に製作され、室町時代の執権・畠山持国が出陣の際に撞いた梵鐘(重要文化財)がある。この鐘には撞かずの鐘、あるいは撞くなの鐘と言う悲しい故事が伝わる。昔からこの付近(西陣)一帯の織屋では、朝夕に鳴る報恩寺の鐘の音が一日の仕事の終始の合図であった。

ある織屋に仲の悪い丁稚織女(おへこ)がいたが、報恩寺の夕方の鐘が幾つ鳴るかについて、織女は9つといい丁稚は8つと言い争いかけをした。

本来は、百八の煩悩を除滅するために108つの十二分の一の9つが夕方に撞かれていたが、丁稚は寺男に頼みその日だけは8つで止めて貰った。

この結果、織女は負けた悔しさと悲しさのあまりに鐘楼で首をつり自殺した。それ以来、この鐘を撞くと不吉なことが起こるため厚く供養し織女の菩提を弔い、毎日の朝夕に鐘を撞くのを止め、除夜と寺の大法要の時にのみ撞かれるようになった。

大晦日の除夜には一般の参加者も撞くことができる。
□ 410余年前の門前の石橋と擬宝珠
報恩寺は現在地に移ってからの江戸時代に、1730年(享保15)の西陣と1788年(天明8)の天明の二度の大火に類焼し、立派な伽藍類は全て焼失した。

特に、天明の大火は洛中の全域に及んだ。こうした状況下で再興にも年月を要し、30年後の1818年(享和1)に客殿(方丈)・玄関・内玄関等が再建されたが、本堂・庫裡の再建を残しながら現在に至っている。

東門前の石橋は、1602年(慶長7)に豊臣秀吉の侍尼・仁舜尼(にんしゅんに)の寄進で架けられたもので、桃山時代の代表的石造美術品の特長を表している。

橋が建設された当時の擬宝珠の6個のうち2個が現存し、その擬宝珠には「慶長7年8月18日」の銘が刻まれている。三条大橋の擬宝珠には「慶長9年」の銘があり、これよりも2年前に架けられた言える。

現在、石橋の下は埋め立てられているが、かつては「川(こがわ)」と呼ばれる川が南に流れており、その名残りは小川通という通りの名前に引き継がれている。

□ 珍しい(ヘビ)の鬼瓦
客殿の屋根を見ると、3匹の蛇の頭を表した鬼瓦が乗せられている。初めて目にする蛇の鬼瓦、住職のお話によれば蛇には魔除けの意味があるとのこと。


【 プラスα: 応仁の乱の史跡「百々橋の礎石」】
報恩寺の北、200mほどのところに「百々橋(どどばし)の礎石」がある。百々橋は当地を南北に流れ、報恩寺の東門前を南下する小川(こがわ)に架かっていた橋(長さ約7.4m・幅約4m)。

歴史で有名な応仁の乱(1467~1477)の際、東軍の細川勝元(陣地は上御霊神社)と西軍の山名宗全(近くに邸跡)の両軍が、橋を隔てて数度にわたり戦い百々橋に戦国乱世の歴史のひとこまが刻まれた。

古来板橋であったが、近世になって石橋に架け替えられ、更に1963年(昭和38)に小川の埋め立てに伴い石橋も解体された。橋脚を支えた4基の礎石の内の1基が百々橋をしのぶ貴重な遺構として当地に遺されている。