「いま・ここ」について最近、日記やつぶやきでよく書いています。
「いま・ここ」について、?という方がいたら下記のベトナムの禅僧ティクナットハンの動画が分かりやすくて良いです。まずは見てみて下さい。(ダライラマと並んで世界でもっとも著名なお坊さんの一人です)
この「いま・ここ」で自分がしていることをしっかりと自覚し続ける行為を、ヴィパッサナー瞑想とも言います。
ヴィパッサナーとは、「明確に観察する」という意味です。
このヴィパッサナー瞑想は元々、ブッダが苦行から離れて、菩提樹の下で悟りを開いた時にしていた瞑想だったと言われています。
ブッダは目覚めた人、覚者という意味もあります。目覚め、覚者、覚醒、悟りなんていうと、なにか自分以外/以上の超人的な存在になるような幻想を抱きがちですが、
そういうことからすると、「いま・ここ」で「自分自身」と「自分のしていること」をしっかりと「自覚」している状態/人を、そういうのかもしれません。
初めは、フッと思い立ったときや、ちょっと頑張り過ぎて疲れたなーと思ったときなどに、
意識的にある一定時間「いま・ここ」で自分の
「していること」(身体)
「感じていること」(感覚)
「思っていること」(思考)
「まわりの世界」(真理)
を判断せずにあるがままに、しっかりと「観察」し続けると良いと思います。(四念処)
そうすると自然と「いま・ここ」に戻ってこられます。ティクナットハンが言うように最初は欲張らずに、「一歩一歩」「一息一息」の「していること」の「観察」から始めると良いです。
行為はなるべく「ゆっくり」して、できない自分を責めたり(判断)せずに、「いま・ここ」自体にも執着しないで、「修行」するのではなく、「楽しんで」するのがコツです。

普段、私たちは自分のしていることをちゃんと自分で自覚して、今にいるつもりでいますが、意外と、、
心配や恐れで未来に意識がいっていたり、
後悔や怒りで過去に意識がいっていたり、
考え事をしてどこかに意識がいっていたりして、
「いま・ここ」の目の前にあるものをちゃんと見てなかったりします。
「いま・ここ」で自分自身と自分のしていることをしっかりと「観察」するようになってくると、
そういった未来や過去や概念などの「思考/頭の世界」に落ち込んで、そこに囚われて、目の前の現実をちゃんと見ていない自分に気がつくようになります。
そして、その「思考/頭の世界」から目を覚まして、物事を判断なしに、あるがままに中立にみれるようになってきます。
また、ひとつひとつの行為を純粋に楽しんで味わえるようにもなります。
身の回りの自然の美しさに気付いたり、
一杯の水の美味しさに気付いたり、
道端の草花の良い匂いに気付いたり、
身体を動かす喜びに気付いたり、
波や風の音の心地よさに気付いたり、
こういった、ひとつひとつの行為の中に「喜び」を見つけれるようになっていきます。
動画でティクナットハンが「私は今、到達した」という言葉を使っていますが、(至彼岸、波羅蜜多、羯諦)
「いつか」「どこか」ではなく、毎瞬毎瞬の「いま・ここ」が「人生の目的地・ゴールで、それが至上のもの」なんだな、ということも段々、分かるようになってきます。そして、その「いま・ここ」に、すべてがあったんだということも。

さらに、自分のしていることだけでなく、「自分自身」自体も「観察」するようになってくると、
自分が思い込んでいる自分自身というものは、元々「無い」んだということが分かってきます。
?という方がいたら、そこをうまく説明してくれているティクナットハンの動画があります。5:10くらいから、最後までを見てみて下さい。
私たちが思い込んでいる自分自身や世界は、私たちが判断(意味付け)や分別(2つに分ける)をして創り上げた「思考/頭の世界」のもので、
すべてのものは元々、どんな意味付けもなくあるがままで、本質的には分かれては存在していないこと、
絶対的に個として独立しているものは、世界には一つもないんだということが分かります。(諸法無我)
そして、その「思考/頭の世界」で、私たちが意味付けして(判断)、2つに分けた(分別)、いわば、「仮のもの/幻想」に囚われてしまうことで、苦しみ、悩み、問題を、私たちが自分自身で創り上げているのが見えてきます。詳しく例えれば、、
自/他、私の/あなたの(所有)、これ/あれ(境界線)、味方/敵(対立)、正/誤、成功/失敗、始/終、過去/未来(時間)、良/悪、ポジティブ/ネガティブ、優/劣、知る/忘れる、得る/失う、精神/物質、生/死、天国/地獄、神/悪魔、浄化/汚化、統合/分離、悟り/眠り、などなど、、
こういったそれぞれのものは、私たちが「思考/頭の世界」で創った「仮のもの/幻想」で本質的には「無い」のです。ですから、すべてのものには元々、こういった意味付け自体も付いていないし、本来こうやって分かれてもいないのです。
これを突き詰めれば、ティクナットハンが言うように、
「 あなたは私たちであり、あなたは世界そのもの/ You are us , You are the world 」
この素晴らしい言葉!の通り、物質的な所だけではなく、精神的な所まで、
あなたと、僕と、私たちと、世界と、すべては元々、分かれてはないんですよね (^_^)
「あなたがあなた自身にする行いは、すべて私たちに対する行いになり、
あなたが私たちにする行いは、すべてあなた自身にする行いになるのです。
/Whatever you do to you , you do to us . Whatever you do to us , you do to you 」

最近、音楽も、ある種のヴィパッサナー瞑想で、それに近いことを以前から、知らずにやっていたんだなーという気付きがありました。音楽を聴いたり、演奏したりしていると、一音一音を楽しみながら意識して追っていくうちに、自然と「いま・ここ」いられます。
前の日記にも同じようなことを書きましたが、
こういった、いろいろなことの理解が進めば、進むほど、「いつか」「どこか」に「なにか」があるのではなくて、、
「いま・ここの自分の足下にすでに、すべてがあったんだ」(すべてのものは元々、分かれては存在してないのだから、自分とすべてはつながっているのだから)
ということが、理屈ではなくて、実感としてその度、その度に出てきて、その感じが理解とともに、どんどん深まっていく気持ちがします。
進化=深化、進化は深化することなのかもしれませんね。
面白いことに、、「理解する」は英語で「Understand」ですが、Under(下に)+Stand(立つ)と書きます。不思議ですね (^_^)
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