京都の禅庭を楽しむ「小堀 遠州」 | 神旅 仏旅 むすび旅

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人の心は常に脚光を浴びるものに傾く。その中で本来のものを忘却していく事は歴史の中で繰り返えされてきました。日本の歴史財産である神社仏閣もそうです。巡礼をつづけると歴史の忘却したものに出会うことがある。その忘却した記憶を拾い集めています。

私は、京都の寺院の庭をみても、さっぱりその良さは分かりませんでした。えー
そもそも、ごちゃつく京都があまり好きではなかったのですが、だんだん京都が面白くなってきたのです。その一つが「禅 茶 庭」☞「小堀 遠州」という人物を知ったからです。



小堀遠州 こぼりえんしゅう(1579~1647)


小堀 政一(こぼり まさかず)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名、茶人、建築家、作庭家、書家。
大名として行政面でも活躍したが、多くの分野で天賦の才を発揮し、後世に名を残し、日本を代表する総合芸術家として語られ、日本のレオナルド・ダ・ヴィンチともいわれます。


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【大名】
遠州の父、小堀新介正次は、近江国小堀村(現在の長浜市)の土豪で、母は、戦国武将浅井長政の重臣の娘でした。

備中松山藩第2代藩主、のち近江小室藩初代藩主。遠州流(小堀遠州流)茶道の祖。一般には小堀 遠州(こぼり えんしゅう)の名で知られる。
安土桃山時代から江戸時代へと遠州は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、三者三様の社会を支配する世の中を生きました。 このことが、小堀遠州の切り開く茶道や文化に大きな影響をもつことになりました。

慶長13年(1608年)駿府城作事奉行を務め、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより『遠州』と呼ばれる。元和5年(1619年)には、小室藩(滋賀県長浜市)1万2千石の大名となる。



【茶人】
▶禅と茶
禅宗は、唐の時代に広まり、その禅寺の僧侶たちの修業の生活の中にお茶に関しての儀式がすでに確立していたと言います。
室町時代に大徳寺の住職を務めた一休宗純という禅僧がいました。その一休和尚のもとに当時の優れた文化人達が集まり、教えを請い弟子となった。その中には、後に今日の茶道の基を築いた村田珠光がいます。珠光は大徳寺の一休禅師に師事し悟りを開いたと言われており、珠光は禅僧の行なっている「自己の表現」に、亭主としてのもてなしの気持ちを加え、禅と茶の関係をより深いものにしていきました。
遠州も少年時代から大徳寺 春屋宗園( しゅんおくそうえん)について禅を学び、禅の思想(精神)が根源としてみうけられます。

▶三大茶人の一人 遠州の「綺麗さび」
 「わび茶」の千利休
 「わび、さび茶」の古田織部
 「綺麗さび」の小堀遠州


遠州は、村田珠光、武野紹鷗、千利休、吉田織部と続いた茶の湯の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役とまります。

天正16年の遠州が10才の時、大和郡山城内で開かれる秀吉の歓迎茶会のために、秀長は千利休を呼んで茶の湯を学んでいたときがありました。遠州はそのときに初めて利休の姿を見て、茶の湯に目覚めることになったそうです。その後、15才で利休の弟子であった古田織部に師事します。

遠州は、千利休、古田織部の心を受け継ぎながらも、王朝の雅や和歌の世界を融和させ、独自の「綺麗さび」という茶の湯を確立しました。なかでも「古今和歌集」を書いた藤原定家の世界が源といいます。

遠州は先ず小間(茶室)で会席や濃い茶を勧め、広間(鎖の間)で薄茶をともにするという茶の湯のあり方を創出しました。そして、床の掛物も小間には墨蹟、広間には禅画や三幅対を用い、棚には香合や巻物を飾りました。部屋を移動すると言うやり方は師匠の織部からでしたが、遠州はそれをさらに洗練し、完成度を高めました。

茶道具においても名物の位付け(中興名物)を定めるとともに,遠州七窯といわれる国焼の振興,塗師近藤道志(石地塗(いじいじぬり))の指導など,茶の湯全般に工夫を行っています。

後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心的人物となり、王朝文化の雅の心や海外文化の優れた要素を、独自の審美眼と感性で茶の湯に世界に融合・調和させ、『綺麗さび』という幽玄・有心の独特の世界を創り上げ、武家茶を確立していきました。




【禅庭園の起源と発展】
かつて禅寺の方丈の南側は晋山式で就任 する住職が白砂敷の上を通り、または左右 2 個の立砂の真中や砂 壇の上を通ることで、身を清める という儀式的機能も持っていました。そのために清浄が求められ、白砂が敷き詰められていました。

やがて儀式は外から広縁、室内にと移動することにより、南側は儀式の場の意味を失い、白砂を活かした園庭になりす。そこで座禅、瞑想の場である禅寺にふさわしい園庭として造園され、現在の枯山水の様式が完成しました。 白砂敷の庭園の 7 割以上は臨済宗の庭園であり、これは「本来 無一物」という禅宗思想を連想させる空白のある庭園が好まれた ことが背景にあると考えられます。

室町時代の禅宗寺院、江戸時代の大名屋敷では、園内を散策しながら眺める回遊式庭園が多く作られています。中でも多く作られたのが、池を作り、そのまわりに園路をめぐらして、築山、橋、島にみたてた岩などを配置した「池泉四季回遊庭園」です。

それとは対照的に、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園「枯山水」が室町時代の禅宗寺院で特に用いられ発達しました。

禅庭の創始者である夢窓疎石(以下は国師)は「山水に特質なし、特質は人の心にあり」といっています。夢窓疎石の代表作の庭園が「天龍寺庭園」と「西芳寺庭園」でありともに1339年に作庭されており、西芳寺の庭園を手本としたのが金閣寺と銀閣寺だといいます。

「西芳寺庭園」
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「天龍寺庭園」







【小堀遠州の城郭と造園】
遠州19歳の時、藤堂高虎の養女を妻にしました。(藤堂高虎は遠州と同じ近江の出身で、三大築城名人の1人と言われるほどの城郭建築の名人として知られる。江戸時代には徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げ、家康死去の際には枕元に侍ることを許された人物。)
このころ遠州の父は作事奉行(土木建築関係の仕事をする責任者)でした。作事奉行というのは、幕府や宮廷の建築や庭園などに関わる仕事を統括する役割の人。

1600年の関ヶ原の戦いの功により、遠州の父は備中松山城を預かり、備中代官として家族でこの地に移り住みます。遠州22歳の時。頼久寺に住み備中松山城の再建に取り組みます。頼久寺の庭は「鶴亀の庭」と呼ばれ、 山を背景に、白砂で波紋を作り、海を表現し、白砂の中央には石を組みあわせて鶴島と亀島を浮かばせていました。このように遠州の芸術的な庭づくりは、「書院式枯山水」の庭として有名になりました。

徳川幕府の幕臣となった遠州の初期においては、城郭建築が中心でした。
1604年、父が65歳で亡くなり、遠州は小堀家をついで、そのまま作事奉行になりました。
最初の仕事は、1608年、遠州30歳の時、家康の居城である駿府城の建築を担当し、その功績が認められて従五位下遠江守というのを授かり、『遠州』と呼ばれるようになりました。駿府城は現存していませんが、七重の豪壮 な天守閣をもつお城だったという。
その四年後の1612年、遠州は徳川御三家の筆頭格、尾張藩の名古屋城天守作事奉行を拝命します。遠州がつくる天守閣には、破風といわれる屋根の装飾に共通の特徴がある。それは最上階の下に典雅な唐破風を設け、その下に端整な三角形の千鳥破風を三つ配している。家康公の生涯を描いた『東照社縁起絵巻』の駿府城にもそのようになっている。名古屋城天守閣は第二次世界大戦時に焼失していますが、1959年にほぼ遠州当時の姿に再建されています。

他にも、仙洞御所、二条城、名古屋城、大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院など築城、建築、作庭の指導者として活躍し、洋風の庭づくりにも取り組み、天皇家のために洋風花壇のある庭づくりも進めました。


【小堀遠州の西欧的デザイン手法】
宮地健次氏によると遠州設計のほとんどの庭園に、明らかな同年代のヨーロッパ・ルネッサンスからバロックにかけての西欧風整形式庭園の手法が取り入れられ降り、遠州は日本における西欧的手法の指導的立場にあったと言う。
具体的には、パースペクティブ(遠近法)、黄金比(縦と横の長さの比の値が黄金比の近似値1:1.618である長方形)といった当時の先端技術としての西欧手法。
借景(庭園外の山や森林などの自然物等を庭園内の風景に背景として取り込むことで、前景の庭園と背景となる借景とを一体化させて景観を形成する手法)などの高度な伝統的技法が用いられている。
従来の池泉中心の庭園や枯山水の庭にはなかった斬新なデザイン性があり、大刈り込みと呼ばれる手法、植え込みに丸い穴をあけて向こう側が見えるような工夫などこうした、刈り込みを用いた幾何学式庭園発祥の地はヨーロッパの国々でした。
また、サイフォンの原理を応用した手水鉢(狐篷庵の山雲床の「布泉」)や、中秋の名月がちょうど中天にかかったときに、そこから月光を取り入れてお点前を照らす突上窓など、茶室には窓を多くつくりました。

▶茶道とキリシタン
1549年、ザビエルがはじめて日本にキリスト教を伝えた頃、村田珠光が茶の作法を考え出した。
安土桃山時代には織田信長、豊臣秀吉など茶道を武士のたしなみの一つとして大名や家来に奨励し、当時の指導者や文化人のほとんどが茶道をたしなみました。
同じ頃、日本にキリスト教を布教するためには、当時の指導者や文化人を入信させようと、茶道を通じてキリスト教と西欧の新しい文化を日本に広めました。都を目指したキリシタン 宣教師の上陸地となった堺「茶の湯」を発展させたのも堺の商人です。
大徳寺と茶道との結びつきは茶祖である村田珠光が一休禅師に参禅した事に始まり以後、武野紹鴎、北向道陳、 今井宗久、津田宗及と言った人達も皆な大徳寺歴代の和尚方に帰依し参禅しました。村田珠光の弟子である武野紹鷗の弟子のうち千利休を除くほとんどがキリスト教に入信しています。大徳寺二十三の塔頭のうち二十が茶席をもっており、キリシタン大名や保護した人たちも多くみうけられます。
小堀遠州の西欧的デザイン手法もこの西欧文化の影響が大きいと言います。


【「南禅寺の大方丈庭園」と「南禅寺中金地院」】
▶「南禅寺の大方丈庭園(虎の子渡し)」
徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、その権勢から「黒衣の宰相」の異名を取った南禅寺の金地院崇伝(こんちいん すうでん)は、『本光国師日記』に遠州との交際が1605年頃からと記録されている。
崇伝により「南禅寺の大方丈庭園」と「南禅寺中金地院」の依頼を受け、構想を始めたのはほぼ同時でしたが、「南禅寺の大方丈庭園」の方が「南禅寺中金地院」の庭よりも二年早く完成している。
南禅寺は遠州の造営によって、1628年に大方丈、数寄屋、鎖の間などが完成した。庭園は1632年に築造されました。

石の配列は、二列六つの石は、東から西に流れるように小さく低くなる。背景の築地塀も東が高く西が低くつくられている。これは西洋の遠近法を用いて、狭く細長い庭に奥行きをもたせ、広く見せる工夫をしている。全体的には茶色い石を配しているが、中央の富士山石だけは青黒い貢岩を置いています。また、借景として遠州の時代には築地塀の背後には建物はなく、うしろにそびえる大日山はほぼ全景が見えていたといいます。庭の石と庭木はこの山の稜線に沿うように低くなっており、山も庭の一部のように見えていたという技法をこらした庭です。
また、南禅寺方丈石庭や大徳寺孤篷庵前庭を含めて、すべて黄金比によって配石が決定され、かつ遠近法が用いられていると言う。




これは有名な作庭者不明の「龍安寺(りょうあんじ)」の庭によく似ており、龍安寺も遠州の作庭との説があります。




▶「南禅寺中金地院(鶴亀の庭)」
徳川三代に仕えた崇伝は、日光東照宮を自寺である金地院にも分祀したいと考えたのか、1627年、遠州に東照宮の造営と茶室「八窓席」の造営を含む方丈の改修を依頼しています。
一面に白砂を敷き、右に鶴島、左に亀島を置いた蓬莱式枯山水庭園で、かれさんかい表す石組を置く。鶴島と亀島の間には、蓬莱連山を表す三尊石組や東照宮を遙拝するための長方形の大きな平石(遙拝石と呼ばれる)などがある。
鶴亀の島々で将軍のお成りをめでたく祝い、礼拝石に寄せて神君家康公への崇敬を表し、崇伝の繁栄をも願う神仙蓬莱式枯山水庭園。遠州は緻密な設計図に基づいて材料を指示しおり、材料は時の権力者である崇伝のもとに大名知人から続々と持ち込まれた。こうして諸大名から寄贈された名石を配した徳川家の永久の弥栄を祈念する「鶴亀の庭」がつくられました。1632年の五月頃に完成下と考えられ、崇伝は遠州に書状を贈っています。しかし、残念な事に崇伝はそのまま江戸で亡くなり、完成した庭を見る事は在りませんでした。







崇伝は、南禅寺の復興し、徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもありました。1619年に天下僧録司という全国の禅宗寺院を総轄する最高職につき、幕府は新寺院諸式をつくらせています。また、石川五右衛門が「絶景かな!絶景かな!」という名科白を廻す「南禅寺山門」は、藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るため寄進したもので、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の役の戦死者の位牌などを安置されています。



【小堀家の菩提寺 「大徳寺孤篷庵(京都)」】
孤篷庵(こほうあん)は、京都府京都市北区紫野にある臨済宗の寺院。臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭。慶長17年(1612)小堀政一は大徳寺塔頭の龍光院内に親交のあった江月宗玩を開祖として小庵・孤篷庵を建立しました。そして30余年経た寛永20年(1643)に現在の地に移しました。

遠州は、利休や織部に多大な影響を与えた大徳寺百十一世住職の春屋宗園 (しゅんおくそうえん)禅師から「孤篷」「宗甫」「大有」という三つの道号を頂いた。「孤篷」は最も若い28歳の時に授けられた号で、そこには次のような偈が添えてあった。
「扁舟、雨を聴いて、露萩の間に漂う。天もし吹き霽らさば、あわせて青山を看るべし」
「小舟が雨の降るなか、葦や萩の間を漂っている。風が吹いて闇の世界を吹き払ってくれたら、あなたはそこに青山を見出すだろう」
「孤篷」とは、一艘の「苫舟」のこと。故郷琵琶湖に漂う孤舟にたとえ、いまだ禅において修行の道なかばの状態にある遠州公の姿に、「禅の境涯に達することができれば、最後にあなたは悟りの境地に到達できるであろう。」と将来の遠州公の境涯を看破し、教え導いています。

遠州は、この孤篷庵の建物全体を故郷の琵琶湖に浮かぶ「苫舟」に見立て、庭には近江八景の風景を写す構成で造っています。

また、茶室の「忘筌」は有名で、「忘筌」の名は荘子外物篇にある下記の文が由来となっています。
 筌は魚に在る 所以、魚を得て筌を忘る。
 蹄は兎に在る 所以、兎を得て蹄を忘る。
 言は意に在る 所以、意を得て言を忘る。
 吾、安にか夫の忘言の人を得て、之れと与に言わんや。


これは、目的を果たしたらそれに使った道具や手段は忘れてもよいと言う意味で、何ごとにも執着しない禅の心を表しているそうです。

京都伏見に戻る事を許されたのは67歳のときで、遠州はその後わずか二年後の1647年伏見奉行屋敷にて六十九年の生涯を閉じ、ここ孤篷庵に葬られました。



【小堀 遠州作の庭、茶室、城】
岡山
◉小堀遠州の備中高梁の町づくり
◉頼久寺(らいきゅうじ)遠州庭園の原点
◉備中松山城
◉東湖園 閉園してしまいました。

京都
◉大徳寺方丈東側庭園
◉大徳寺龍光院茶室「密庵」(京都)
◉大徳寺孤篷庵(京都) 茶室「忘筌」
◉南禅寺の大方丈庭園(虎の子渡し)
◉南禅寺中金地院(鶴亀の庭)
◉龍安寺(りょうあんじ)?
◉二条城「二の丸庭園 三方から観賞できる庭」
◉仙洞御所庭園
◉桂離宮庭園
◉高台寺「観月台」「開山堂」「霊屋」「傘亭」「時雨亭」
◉高台寺の塔頭寺院「圓徳院(えんとくいん)」
◉青蓮院門跡(京都)「霧島の庭」
◉御香宮神社 (ごこうのみやじんじゃ)
◉正伝寺
◉清涼寺(大方丈の庭)
◉智積院
◉曼殊院

滋賀県
◉大池寺「サツキの大刈込庭園」「蓬莱庭園」
◉医王山総持寺 小堀遠州誕生地
◉近江孤篷庵(滋賀)

静岡県
◉龍潭寺(静岡)
◉長楽寺(静岡)「満天星の庭」
◉医王寺(静岡)
◉本興寺(静岡)
◉お茶の郷博物館
 伏見奉行屋敷の茶室「松翠亭」と広間(鎖の間)の復元

関東
◉東京国立博物館庭園
◉皇居東御苑二の丸庭
◉日光輪王寺
◉浅草寺 伝法院







ニコニコ私感です

ブログ☞神秘の法則 黄金分割 Φ
西洋文化において、黄金分割は長い伝統がある。

最も古い神聖比例の表現はエジプトピラミッドであり、古代エジプトのピラミッドには、至る所に数の原理と黄金分割が隠され、古代エジプトの建築家は、神と人間と自然と宇宙との調和の秘密を数と形の中に隠し表現しました。
ここに明らかなように、古代の建築師団は、完璧な神聖幾何学に基づいて、建築物の設計・施行を行っていました。そしてその建築物に秘められた真の意味は、その象徴を知る者にしか理解できないように、密儀として代々口伝され、中世のローマの建築団師へと伝わっていきます。

「フリーメーソン」秘密結社も、元来は石工(メーソン)たちのギルドから発達しました。また、彼らの間には、エジプトのピラミッドや、イスラエルのソロモン神殿を築いた古代の叡智が、密かに伝承されていた。
「タロットカード」もそうで、ブログを始めた頃には、どっぷりとこの世界に入って行きました。
「タロットは、古代からの隠されてきた「真実」の歴史書なのかもしれません。「真実」イコール「悟り」でしょうか」
と書いた事を思い出し、ここにきて「キリスト教と禅」との繋がりで、「数の原理と黄金分割」が江戸時代に小堀 遠州によって広がったのは、私にはとても面白いと感じるのです。


最後まで呼んで頂き感謝です。