白山信者だった奥州藤原氏「中尊寺の鎮守白山権現」 | 神旅 仏旅 むすび旅

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人の心は常に脚光を浴びるものに傾く。その中で本来のものを忘却していく事は歴史の中で繰り返えされてきました。日本の歴史財産である神社仏閣もそうです。巡礼をつづけると歴史の忘却したものに出会うことがある。その忘却した記憶を拾い集めています。


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越前(現福井県)の平泉寺白山神社は、
へいせんじはくさんじんじゃ」と読む 

むっ
私は「ひらいづみ」と呼んでいたあせる

が、案外こんな間違いが
えっ面白い歴史の断片を知ることになる。

「ひらいづみ」といえば「世界遺産平泉」
「中尊寺の金色堂」といったイメージがあります。

ちょっと「平泉 ひらいづみ」にこだわってみます。



平泉(ひらいずみ)


◉平泉
平泉は、岩手県南西部にある地名で、現在の平泉町の中心部にあたります。
平泉は最大規模の戦闘であった延暦11年(792年)の大和政権の坂上田村麻呂と蝦夷方の阿弖流為(アテルイ)の戦いでは平泉近辺が戦場となりました。

阿弖流為(アテルイ)と言えば、京都の清水寺を参拝された方はピンとくる方もおられるはずニコニコ
清水寺の境内にはアテルイ・モレ石碑が立てられていますよね。悲しい歴史があります。

ブログ☞西国三十三 第十六番札所 音羽山 清水寺
宝亀11年(780年)に多賀城を一時陥落させた宝亀の乱の伊治呰麻呂、延暦8年(789年)に巣伏の戦いで遠征軍を壊滅させた阿弖流為(アテルイ)らの名がその指導者として伝わります。朝廷側は大軍で繰り返し遠征し、征夷大将軍坂上田村麻呂が胆沢城と志波城を築いて征服しました。
清水寺の創建については、様々な説があり、坂上田村麻呂の開創ないし中興の伝説を有するものもあります。
田村麻呂は敵将・阿弖流為らの器量を評価、阿弖流為らは田村麻呂に帰属しました
田村麻呂は東北経営に彼らを登用するように京の公卿に進言したのですが聞き入れられず、阿弖流為、母禮は河内国杜山(片埜神社付近)で斬殺されてしまいました。
現代になって清水寺境内南苑に関西在住の岩手県人達により『北天の雄 阿弖流為、母禮盧碑』を建立しました。


さて、よこみちにそれました
延暦21年(802年)の胆沢城築城によって平泉一帯は大和政権の支配下に入るようになり、間もなく近辺で莫大な金が産出することが判明すると水運拠点としての平泉の重要性はいよいよ高まります。

平安時代後期には衣川を拠点とする地元の豪族であった安倍氏が俘囚長として奥六郡を支配し、近辺では国司よりもはるかに強力な勢力を持ちましたが、前九年の役で源頼義・義家親子に滅ぼされます。

平泉はその際に源氏に味方した清原氏の支配下に置かれましたが、清原氏の内紛である後三年の役を経て勝ち残った清原清衡(藤原清衡)が、前九年の役で安倍氏に味方して滅ぼされた実父の姓に復して藤原氏を名乗り(奥州藤原氏)、本拠を江刺郡豊田館(奥州市)から磐井郡平泉に移して居館を建設しました。以後、奥州藤原氏4代(清衡、基衡、秀衡、泰衡)にわたり奥州藤原氏の本拠地として栄華を極めた。

奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市だったそうです。
砂金の産出や大陸との貿易等により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど、北方の地にまさに王道楽土を現出させるかの如き所業を遂げています。

毛越寺(もうつうじ、基衡建立)、観自在王院(基衡夫人建立)、無量光院(秀衡建立) などの寺院が建立されたましたが、残念ながら当時の面影をとどめるのは中尊寺金色堂、毛越寺庭園と、紺紙金銀字経などのわずかな遺品のみです。

「平泉」という地名を史料的に確認できる最古の例は『吾妻鏡』の文治5年(1189年)の項目で、時期的に重なっており、その語源は、泉が豊富だったという地形的要因に基づく説がある一方で、仏教的な平和希求の理念に基づくという説もあります。


奥州藤原氏の初代清衡も仏教に深く傾倒し、相次ぐ戦乱の犠牲者たちが敵味方の区分なく浄土に往生できるように、中尊寺を建立しました。

初代清衡の時点での浄土思想は、平泉における仏教思想の中枢を占めてはいませんでしたが、3代秀衡の無量光院建立に至って、浄土教が中心的地位を占めるようになったと言われています。
その過程で浄土思想と深く結びつく建造物や庭園群が建立されるとともに、平泉は仏教色の強い大都市として整備されていきました。世界遺産の主要部分はそれらの寺院(跡)の数々によって構成されており、かつて平泉に展開された仏教的な平等主義と平和主義の理想を今に伝えています。



◉中尊寺
中尊寺(ちゅうそんじ)は、岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗東北大本山の寺院。寺伝では円仁の開山とされる。実質的な開基は藤原清衡で、奥州藤原氏三代ゆかりの寺。
2011年(平成23年)6月26日、「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」の構成資産の一つとして世界遺産に登録されました。
現存する金色堂の上棟は、棟木銘から天治元年(1124年)と判明しています。この堂は清衡が自身の廟堂として建立したもので、内部の須弥壇内には清衡と子の基衡、孫の秀衡の3代の遺体(ミイラ)が安置されていることでも有名です。
文治5年(1189年)、奥州藤原氏は滅亡しますが、中尊寺は「鳥羽法皇御願」の寺とされ、源頼朝の庇護を得て存続しました。






藤原秀衡がこだわった白山信仰


◉藤原 秀衡(ふじわら の ひでひら)(1122~1189年)
奥州藤原氏第3代当主。
保元2年(1157年)、父・基衡の死去を受けて家督を相続。奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となる。両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限を司る官職であり、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率するものでした。

平家全盛期を迎える時代、奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。

平安時代の9世紀後半から10世紀頃にかけて、朝廷の蝦夷政策により北上川流域では、志波城、徳丹城、胆沢城が設置されました。この過程において在地の豪族層により村々に寺院や仏堂が建設されていきました。こうした平安期の寺院や仏堂は現仙台市、多賀城市付近から平泉を過ぎて盛岡市の間に多く存在しています。

◉治承・寿永の乱
安元の頃に鞍馬山を逃亡した源氏の御曹司である源義経を匿って養育します。
治承4年(1180年)、義経の兄・源頼朝が平氏打倒の兵を挙げると、義経は兄の元へ向かおうとします。秀衡は義経を強く引き止めましたが、義経は密かに館を抜け出してしまいます。秀衡は惜しみながらも留める事をあきらめ、佐藤継信・忠信兄弟を義経に付けて奥州から送り出しました。

文治2年(1186年)、平家を滅ぼして勢力を拡大してきた鎌倉の頼朝は「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけ、これは秀衡を頼朝の下位に位置づけるものでした。
しかし、秀衡が健在の間は頼朝は書状を秀衡に送り牽制をかけるという書面上での行動しか起こしておらず、軍事行動には至ってはいません。それほどまでに頼朝は秀衡を怖れていたといいます。そして、奥州藤原氏に対して頼朝の圧力が強まるのは秀衡の死後だったのです。

秀衡の死後わずか2年で奥州藤原氏は滅びてしまった。
秀衡の遺骸はミイラとなって現在も平泉にあり、中尊寺金色堂須弥壇の金棺内に納められています。

「平泉の本源」とされる霊泉の湧き出す「平泉野」の地(骨寺村)には白山神社が鎮座していました。
また中尊寺は、嘉祥三年に円仁が平泉の現在地へと遷したもので、「開基」年としており、その旧跡地から、円仁は、白山神社と山王窟=日吉山王社を、中尊寺と一緒に遷座させたといいます。
どうやら岩手の「平泉」は白山の「平泉」と関係があるようです。


『白山之記』によると、藤原秀衡によって白山山頂に金銅仏が、御前峰には金銅十一面観音像、大汝峰には金銅阿弥陀如来像、別山には金銅聖観音像がそれぞれ寄進されたとあります。

白山中居神社には、秀衡の寄進による銅像の虚空蔵菩薩坐像が祀られています。
社殿では、平安末期藤原秀衡が白山信仰のため奥州の「上村」で仏像を造り、「上村十二人衆」と呼んだ小武士団を派遣して、この座像を寄進したといわれます。この地に住み着いた「上村十二人衆」の子孫の方々は、その後もこの仏像を争乱、一揆、打ち壊し、火災、盗難などから大切に守り続けてきた。
明治維新の後、神仏分離令によって河原に捨てられてしまったが、神社近くに大師堂というお堂を作り、そこに虚空蔵菩薩を安置させ、大師講という講を作り、以来、今も引き続きこの仏像を大切に守っています。

また、息子の泰衡が長滝寺に梵鐘(明治時代に焼失)を寄進しています。

白山比メ神社の阿形の獅子と吽形の狛犬は、秀衡による寄進と伝えられるもので、国指定重要文化財とされています。

また、白山市の林西寺に伝わる金銅十一面観音像も、秀衡による寄進との伝承があります。

えっ白山信仰は、第3代当主秀衡からなのか?



中尊寺の鎮守白山権現


☞中尊寺の鎮守「白山神社」
金色堂の向かい側に白山神社がある。
縁起によれば、白山神社は嘉祥3年(850年)中尊寺の開祖である円仁(慈覚大師)が加賀の白山神社から分霊し、大師自ら十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号した。藤原秀衡の持佛である運慶作正観音と源義経の持佛である毘沙門天が祭られていたが嘉永2年(1847年)の火災で焼失した。

えっ延暦寺を守護する七社の一つも「白山神社」ですから、天台宗なら白山社を鎮守社として当然です。


◉三代天台座主 円仁(794~864年)
23歳の年、師最澄の東国巡遊に従って故郷下野を訪れる。最澄のこの旅行は、新しく立てた天台宗の法華一乗の教えを全国に広める為、全国に6箇所を選んでそこに宝塔を建て、一千部八千巻の法華経を置いて地方教化・国利安福の中心地としようとするものであった。

円仁は入唐の始めから新羅人に助けられ、在唐中も新羅人の中に潜り込み、仏教弾圧の嵐の中でも新羅の人々に助けられ、帰国に際しても無事送ってくれたのは新羅の商人たちであった。円仁は赤山新羅坊の新羅寺・赤山法華院で新羅仏教を学んでいる。円仁は「声明は新羅の声明を第一とす」として、新羅声明を天台声明として取り入れ、今日に続いている。

円仁派は山門派と称された。
慈覚大師円仁が開山したり再興したりしたと伝わる寺は関東に209寺、東北に331寺余あるとされ、浅草の浅草寺もそのひとつ。このほか北海道にも存在する。
浄土宗の開祖法然は、私淑する円仁の衣をまといながら亡くなったという。


ブログ☞白山信仰の謎でも書きましたが
白頭山=太白山の信仰は、おそらく彼ら「白山部」の中でうまれ、日本海を渡って運ばれたものと想像され、白山神は、ある時までは新羅系渡来の神であることが自明だったと思われている。





「平泉」という地名を史料的に確認できる最古の例は『吾妻鏡』の文治5年(1189年)の項目で、藤原清衡に始まる奥州藤原氏の時期的に重なっているという。

谷川健一氏は、「平泉」という地名は、越前(現福井県)の平泉寺に因んだものであると指摘している。
この岩手県の「平泉」の命名者は藤原清衡であり、『吾妻鏡』によると、清衡が江刺郡豊田館から母方安倍氏ゆかりの地である磐井郡の平泉へとその居館を移したのは嘉保年間(1094〜1096)であるとされる。
その時はまだ「平泉」という地名はなかった。ではなんと呼んでいたか?

清衡の父の藤原経清は亘理権大夫経清とあり、陸奥国亘理郡の豪族であり、亘理郡(わたりぐん)は、宮城県とされるが、司東真雄氏はそれを否定して、大同三年(808)の『大同類聚方』に「磐井郡(岩手県)亘理」とある事から亘理とはこの「平泉」を指すとしている。そうであれば、清衡がそこに移住したのは、父の出身地を選んだと言う事になるという。

かつての亘理の地も清衡の頃に「平泉」と名を変え、また白山平泉寺のあるところはかつて越前大野郡(大半の集落が岐阜県に越境合併した石徹白村)毛屋郷であり、「毛越寺」の寺名となった「毛屋」の地名もそれに由来するものであろう。

このように「平泉」「毛屋」の地名を新たにつけられたのは、清衡の白山信仰によるものであるという。
また、清衡は、中尊寺を建てる前に五串の奥の本寺(一関市)に藤原氏の氏寺を建てた。それが「骨寺」という説がある。そこに平泉野という地名があり、骨寺が中尊寺の前身であれば平泉野という地名もそこから移ったという。(白鳥伝説より)


また、福島県いわき市にある真言宗智山派の寺である「白水阿弥陀堂」は、平安時代末期の1160年(永暦元年)に、岩城則道(岩城氏の祖)の妻・徳姫(奥州藤原清衡の娘)によって建立された。
「白水」とは、平泉の「泉」の字を二つに分解したもの(「白」+「水」=「泉」)で、岩城氏の本拠地であったいわき市の「平」という地名の由来も平泉の「平」を取った物だという説があります。



▶白山比咩神社の宝物館にある重要文化財「木造獅子狛犬」
奥州の藤原 秀衡が奉納したとも伝えられています。

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▶白山山頂近く千蛇が池のほとりに安置されてあった銅造地蔵菩薩座像は、1183年池の傍らで鋳られたと伝えられ奥州の藤原 秀衡が奉納したといいます。この地蔵菩薩座像は、「白山下山仏林西寺」に現在安置されています。


ニコニコ私感です
まだ訪れた事のない「岩手県西磐井郡平泉」へ、思いを馳せる
白山聖地をおとずれたからこそ、そんな思いが募って私の「むすびの旅」になります。

白山中居神社「上村十二人衆」と呼んだ小武士団はこの地に住み着き、子孫の方々は、その後もこの仏像を大切に守り続けてきた。
白山中居神社で偶然にも姫神の星 吉紀さんの奉納曲を聞かせて頂きました。
この日の夜、長滝白山神社で白山開山千三百年祭があり演奏されるとの事で、その前に白山中居神社に来られていたそうです。

なぜはてなマーク

姫神(ひめかみ)は、岩手県を活動拠点とし、東北地方の民謡や民族音楽に影響を受けた楽曲を作り続けている。その名の由来は、岩手県盛岡市にある姫神山に由来するそうです。
一貫して東北の地から「北人霊歌」とも呼ばれる音楽を発信し続け、その音の音色は、なぜか「懐かしい」そんな思いがします。

先代の星吉昭さんも1988年、1992年、1996年、三度の奉納演奏を行ったそうで、その始まりは実は白山中居神社体と言う事でした。2004年10月1日 星吉昭死去され、平泉毛越寺で葬儀されたそうです。

岩手と白山を繋ぐ見えない糸は現在も続いているようです。

白山開山1300年プロモーションビデオの曲は、星 吉紀さんの曲です。
とても素敵ですねニコニコ









また、この美濃馬場禅定には、江戸時代前期の修験僧「円空」が誕生し、入定した地でもあります。全国に「円空仏」と呼ばれる独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで有名です。「上村十二人衆」との関係はないのかな?
なんて、想像してしまいますニコニコ


最後まで呼んで頂き感謝です。






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