日本医薬の祖神 少彦名神社の神農祭り | 神旅 仏旅 むすび旅

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人の心は常に脚光を浴びるものに傾く。その中で本来のものを忘却していく事は歴史の中で繰り返えされてきました。日本の歴史財産である神社仏閣もそうです。巡礼をつづけると歴史の忘却したものに出会うことがある。その忘却した記憶を拾い集めています。


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神農祭は大阪の一年のお祭りは、1月の十日戎ではじまり神農祭で終わるので、“とめの祭” といわれています。

所在地  大阪府大阪市中央区道修町二丁目1番8号
主祭神  少彦名命、神農氏
社格等  無格社
創建   1780年
別名   道修町の神農さん、神農さん、大阪のお伊勢さん
例祭   11月23日



祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。
医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者などの信仰を集めている。また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を願う参詣者も多い。
近年ではペットの病気平癒・健康祈願に参拝する人も多い。
伊勢講から始まった神社でもあるため関西一円より伊勢神宮のお札を求める参拝者で正月は賑わう



ご祭神
少彦名命(すくなひこなのみこと)-日本医薬の祖神
神皇彦霊神(かんむすびのかみ・万物生成の神)の子。常世 の神。
国造りの協力神(大国主命)、酒神、温泉神穀霊、まじないなど多彩な 能力を持つ。

神農炎帝(しんのうえんてい)-中国医薬の祖神
を嘗めて効能を確かめ医薬と農耕を諸人に教えた。


ご由緒
ここ大阪道修町(どしょうまち)は、豊臣時代頃から薬種取引の場として、薬種業者が集まるようになっていました。江戸時代になると、幕府は道修町の薬種屋124軒を株仲間として、唐薬種や和薬の適正検査をし、全国へ売りさばく特権を与えました。
薬は、人命に関わるものであり、その吟味は大変難しいものがあります。
そこで、神のご加護によって職務を正しく遂行しようと、安永9(1780)年京都の五條天神より少彦名命を仲間の寄合所にお招きし、神農炎帝王とともにお祀りしたのが始まり。

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道修町周辺の薬局・製薬会社などには、祭礼の提灯(ちょうちん)が掲げられている。辺りには、切り出した1本の大きな竹に張子の虎と製薬会社の製品(薬剤が入っている外箱)、吹き流しなどが吊るされたものを多く見かける。

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神農祭で授与される、五葉笹に吊るされた「張子の虎」(神虎)が有名である。1822年(安政5)、大坂でコレラが流行したが、道修町の薬種仲間が疫病除薬として「虎頭殺鬼雄黄圓」(ことうさっきうおうえん)という丸薬を調合し、少彦名神社の神前で祈祷して、罹患者(りかんしゃ)などに施した。そのときに合わせて、「張子の虎」を配布した。その丸薬の効能が高かったため、「張子の虎」の御守がよく知られるようになった。

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狭い敷地に、多くの参拝者でにぎあうあせる
写真どころではないあせる

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少彦名命
日本神話における神。『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)(=ガガイモの実とされる)に乗って来訪した。 『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。のちに常世国へと渡り去る。国造りの協力神、常世の神、医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物・知識・酒造・石の神など多様な性質を持つ。 酒造に関しては、酒は古来薬の1つとされ、この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる。海から来訪したとの記述により渡来人という説もあるが、船で渡来=外国人という単純な図式からの連想であり、奇説の域を出ない。(ウィキペディア)



神農氏


5000年前、神農氏は姜という部落の首領だったが、彼は普通の農家と共に田畑を耕した。農耕実践の中で、神農氏は中国の最も古い農具・耒耜を発明し、農業の発展を大いに促進した。農業への貢献を称えるため、人々は彼を神農氏と呼んだ。

神農氏の時代は父系氏族会社の初期にあたり、人間の間が平等友好で搾取と抑圧がなかった。史書によると、神農氏が在位した時、男性が農作業に従事し、女性が編物をし、国を治めることにとって監獄と刑罰は必要がなく、指導者にとって軍隊と警察は必要がない。

 神農氏は中国の最も古い医薬専門家と呼ばれる。神農氏は多くの人々が病気に冒され、苦しんでいることを見て、非常に不安した。神農氏は穀物が人間に健康をもたらすことから、各種の草類の実と荎は人間の病気を直すと連想した。神農氏は様々な生薬を捜し、これらの生薬の特性を掌握するため、常に自ら食べて、更に中毒したこともあった。神農氏は「神農百草」を編集し、多くの病気の治療法を記載した。

 また、神農氏は天文家であり、伏羲氏が創作した易占の八つの卦に基づき、64つの卦を創作し、「帰蔵」と名づけ、これで占うことができた。神農氏は多くの人が必要なものを生産できないが、不必要なものを生産しすぎ、生活が非常に不便であることを見て、余ったものを一箇所に集めてお互いに交換するようにした。これで中国の最も古い市場が生まれた。

神農氏は五弦琴を作り、その音色が鳥のさえずりのような美しいものだった。神農氏の息子は鐘という楽器を作り、更に多くの曲を創作した。これらの楽器は今でも残されている。  
 即位140年後、神農氏の統治地位は黄帝に取って代わられ、神農氏が死んだ後、湖南省長沙に葬られた。そのお墓は今でも保存され、炎帝陵と呼ばれる。
(中国百科より)


道教の神としての神農氏
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『史記』によると、伏犠に続いて皇帝になったのは、炎帝神農氏である。かれは、全国をめぐって多くの草をなめ、毒草と薬草を区別して薬を発明し人々に農薬や物々交換の方法を教えたとも言われている。かれが先農といえあら、薬王とされるのはそのためである。けれども、伝説では、母は頭が竜になっている神の気に感じて姜水のほとりで神農氏を生んだ。かれは身体は人間ながら頭は牛だった。生まれて三日にして口をきくようになり、五日で歩き、七日で歯が生えたが、成長してからは八尺七寸という男になった。
からは、太一皇人が医術にくわし事をしったので、出かけていって教えを乞おうとしたところ、たまたま皇人は留守で弟子しかいなかった。そこで、弟子にむかしの人間はみな百歳をこえる寿命だったのに、後世のものが天授の年齢に達せずに、若死してしまう理由を尋ねた。すると弟子は、今の人間が短命なのは全て自分で招いた結果である。病気になる前に保養せず、重態になった時に適切に治療する事を知らなかったからだ、当然軽くて済む病気も重くなり、早死にしてしまうという意味を歌で諷示した。そのうえ、後で読んで参考にせよと言い添えて『天元玉冊』という本をくれた。いくら待っても太一皇人が帰ったこないので辞去したが、途中で太一皇人の友人に会ったので、一緒に連れて帰国した。
帰国してから『天元玉冊』を読んで神農は人間が病気になるのは内外の二因のあること、及び食物をたべて、その養分を臓腑から手足にまでいきわたらせれば、病気は必ず治る事等をしった。そこで人々を四方にやって、サマザな間草木を探してこさせ、みな自分でその汁をなめてのみくだし、身体のどの部分までをいくかを詳しく実験してみた。そして、その結果をすべて記録したが、一日に70種以上の毒草をなめたことさえあった。その結果、かれは各種の毒草を混合調和させてみれば、身体に害を与えないで済むようになるのではないかと考えついた。まさに、製薬の考え方である。そうして組み合わせた結果、365種の薬を考案した。それで、400種以上の病気がなおるようになって、初めて医の道が起こった。
かれはまた、闇夜の不憫さを痛感し、燃やして照らす事のできる油性の草木をさがしだし、 燭火をつくり、火のことをつかさどる五官をおいた。かれを炎帝メラメラというのはそのためである。別に五穀爺ともいう。






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