⑨道教の神々~実在した西王母〜 | 神旅 仏旅 むすび旅

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人の心は常に脚光を浴びるものに傾く。その中で本来のものを忘却していく事は歴史の中で繰り返えされてきました。日本の歴史財産である神社仏閣もそうです。巡礼をつづけると歴史の忘却したものに出会うことがある。その忘却した記憶を拾い集めています。


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☞西王母伝説

中国には「西王母伝説」というのがある。日本でも大量に発掘されている「神獣鏡」等に登場するが、その西王母の国が「山海経」の解読からも「三星堆遺跡」ではないかといわれ始めた。


▶西王母とは、西方の崑崙山上に住する女性の尊称である。
すべての女仙たちを統率する聖母。
現在の西王母のイメージは、道教完成後の理想化された姿である。


▶西王母の最も古い姿が記載されている『山海経』西山経には、
本来の姿は「天厲五残(疫病と五種類の刑罰)」を司る鬼神であり、
「人のすがたで豹の尾、虎の歯で、よく唸る。蓬髪(乱れた髪)に玉勝(宝玉の頭飾=(機織りの道具で蝶ネクタイの形をしたもの)をのせていて、をつき、穴に住む。」という、半人半獣の姿である。
また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、
これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。


▶『荘子』によれば、
西王母を得道の真人としているし、


▶『淮南子』では、
西王母が持していた不死の薬を、姮娥(恒娥)が盗んで月へと逃げたと記している。

また「西姥勝を折り、黄神嘯吟す」
「勝を折る」ということから、この時の「勝」は、画像石にあるような「簪」をイメージしていたと考えられる。つまり、前漢時代には、簪を挿した女神が西王母である という認識が存在したと考えられる。


▶西王母が西方とつながりが深いことについては、多くの研究者が述べているところである。


人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という、恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」というイメージに変化していった。
やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。
王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのである。また、西王母の仙桃を食べて寿命が三千年も延びている。
漢末の建平4年(紀元前3年)、華北地方一帯に西王母のお告げを記したお札が拡散し、騒擾をもたらしたという記述が、『漢書』の「哀帝紀」や「五行志」に見える。




▶中国最古の旅行記録『穆天子伝』
中国,西晋時代に汲郡(河南省)の人,不準が戦国時代の魏王の墓を盗掘され、中から古代文字の書かれた無数の竹簡が出土した。
竹簡に記されていたものを,荀勖(じゆんきよく)(?‐289)らの学者が当時の字体に改め,『汲冢書(きゅうちょうしょ)』整理した。この『汲冢書』の中に『穆天子伝』という全六巻からなる書籍があり、その内容は周朝の第5代王の穆王(ぼくおう)は、西の彼方にある、神々が住むとされた崑崙山にも立ち寄り西王母に会い、西王母が後に入朝したと言う

穆王は西に行幸して西王母にまみえ、素晴らしい玉やきぬを奉り、綿や組紐の類を献上した。穆王は王母を瑶池(池の名)のほとりでもてなし、互いに詩を作って往来したが、その言葉や内容にはみるべきものがある。
そして崑崙の丘にのぼり、軒えん(黄帝)の宮に遊び、鐘山の嶺を眺め、帝者の宝をもてあそび、・・帝者の宝を玩び、王母の山の石に(文字を)刻み・・。そこで(崑崙)山の珍しい木、美しい草、ふしぎな鳥、怪しげな獣、玉や石、珍しい玉の器、金膏(コガネ)や燭銀(シロガネ)の宝物を取ってもち返り、これを中国に養殖した。
穆王は三年間もそこで滞在したのち、西北部の代広原を通って国に帰ったという旅行記録である。
これには、西王母は人間的な姿に描写されていた。

『穆天子伝』の中の記録は、フィックションだと簡単に決めつけられてきました。
年代から考えると、三星堆第Ⅱ期3人目の王様「魚鳧王」末期に支配していた女王時代のことであろうといわれている。



☞西王母のシンボルマーク「勝 かんざし」
▶徐 朝龍氏は、『穆天子伝』の内容を追求していくと三星堆の古代蜀国が「西王母の国」だと推測している。
古代の蜀における最初の支配者は「蚕叢(さんそう)」「柏灌(はっかん)」「魚鳧(ぎょふ)」といった王たちだったという。しかし性別までは記されていなかった。

町の中央を流れる錦江は名前が示すごとく、漢代(紀元前後の約400年間)には染色された絹織物を洗う川であった。ちなみに「蜀」という文字は「かいこ」を意味し、絹を国家機密の戦略物資とした古代中国において、成都盆地は大切な生産地帯であった。

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漢代の西王母は頭上に「勝」を載せている姿は一般的に知られており、「勝(宝玉の頭飾)」は、糸を巻き付ける道具だったという。
この「勝載」は、漢代の太皇太后と皇太后らが、天下の女性を代表して祖先神に接触し、模擬的な養蚕を行った際、頭上に華勝をつけていると記されている。なお『礼記』月令に、季春の月に后妃によって養蚕がはじめられるが、その時節を知らせるのが「勝載」という鳥だとある。
西王母から始まった「勝載」は、ここにきて、養蚕の季節を告げるために天から派遣された使者となっている。
そして養蚕に密接に関係した西王母は後に、織女と牽牛の七夕という祭祀行事とも関わりを持つようになる。

さて、古代の蜀における最初の支配者は「蚕叢(さんそう)」という縦目をもち、養蚕をはじめたとされる人物であり、農業民族の三星堆蜀国は大きく成長していったが、その経済基盤を支え、文化を特徴づけた要素の一つが養蚕だった。
しかし、「勝(宝玉の頭飾)」は単なる養蚕と紡績に関係したと理由で神の西王母の権威的にシンボルになった訳ではない。

▶小南一郎氏の研究によれば
宇宙の秩序が天上の女神西王母の機織りによって保たれており、勝が折れたりして機織りが止まる時、宇宙は原始のカオスの状態に戻るという。西王母は元来ただひとり、宇宙山としての崑崙の頂上に座って絶対的な権力で世界を秩序づけていた。その秩序づけは彼女が機を織るという行動に象徴されており、いわば世界の秩序を織り出していたことになる。だから機織りの最も重要な部分である「勝」が彼女の頭上に常に載っている訳だという。




☞西王母の重要なシンボル「杖」
西王母のシンボルマーク「勝」のほかに
重要なシンボル「杖」がある。
漢時代では、西王母が「杖」を持つイメージは定着していた。
殷周王朝では、「杖」はあまり存在しなかったと言います。

三星堆蜀国においては、中国考古学史上初の「杖」が発見されている。




杖の上部には、四本の角を持ち、ヤギのような髭を伸ばしている。これは「龍」だと言われているが、『山海経』西山経によれば
「西南へ四百里、崑崙の丘という。・・・・獣あり、その姿は山羊のようで、四本の角をもち、土螻と名付ける。・・・・」
この土螻ににているという。









もしかして、伊勢神宮の斎宮(さいぐう)、賀茂神社の斎院の神や天皇の杖代わりとなって奉仕する者を「御杖代(みつえしろ)」もこんな所からの由来があるのかもしれないと思ったりもする。




☞古代三星堆蜀文明の影響
徐 朝龍氏は、「三星堆・中国古代文明の謎」で
魚鳧王が西王母ではないかと推測し、蜀国の女王たちは、西方世界の王母であった。
おそらく約4800年前に発生したとみられる三星堆文化を基礎とした蜀国は、周王朝以前の王朝とも関わりをもっていた可能性がある。こうした友好的関係の存在こそが周民族主導による中国の命運をきめる滅殷戦争に蜀が積極的に関わった要因にもなっていたと思われる。
このように西周王朝にその名を轟かせ、中国思想に深い影響を及ぼした「西王母之邦」は、女王によって統治され、稲作農業を経済基盤に、驚異的な青銅産業、玉器産業及び黄金産業を誇り、「扶桑=若木」信仰、「燭龍神話」「崑崙神話」などを軸とする高度に発達したイデオロギーを有し、養蚕と漁業を伝統的に尊ぶ、長江上流域の偉大な三星堆蜀国だった可能性が限りなく高い。
この強国から『山海経』の核心的な内容となる太陽信仰、鳥崇拝、神樹思想、「崑崙」聖山崇拝、天地中心観、仙人思想等が生み出され、中原とは全く異なる中国南方神話の基礎を築きあげた。
そして戦国時代から漢時代への「西王母神話」の膨張はとりもなおさずエネルギーにあふれた三星堆蜀文明の生命力が成し遂げたことに他ならない。と記している。


その古代三星堆蜀文明は、遠くはなれた日本にも大きく影響を及ぼした。
今は多くの人が気にも止めないが




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