旅を楽しむには、どうしたら良いのでしょうか?
同じ見学地でも視点を変えれば、興味が湧く何かが見えてくるかも知れません。
朽木宿
現在もその名残りがあります。
5月4日、この朽木でスケッチを楽しむことができました。
鯖街道・・・若狭でとれた魚介類を京に運ぶために利用した街道。主に鯖が多かったのでこの名がついた。鉄道や自動車が発達する前は、徒歩で運んだ。とれた鯖を塩漬けにして、夜を徹して京に運んだ。京に着くころにはちょうど良い味になったという。
町には水路が敷かれています。町の西側には山がせまり、そこから流れる水を水路として整備しています。生活用水防火用水として使われました。
古風な建物が点在しています。
奥に見える三層の建物は、町のシンボル、「丸八百貨店」
これは立樋(たつとい)というもので、朽木のあちこちに建てられています。
水路を分水するために水を汲み上げ、別の水路に流す仕組みになっています。
手前は、建築家、プロテスタント宣教師、実業家ヴォーリス設計の郵便局
奥に見えるのは茅葺屋根の民家
美濃路 大垣城
美濃路大垣宿は、辻の多い複雑な路地と何重にものお堀で囲まれた要塞都市です。
天下太平の世となった江戸時代は、十万石の城下町として発展してきました。
大垣城由来
大垣城は古く応仁年間には東大寺城と呼び、当時の城主は大井荘のうち石包名(いわかねみょう)という地域の代官職をしていた大垣氏であったようです。そこでこの城を大垣城というようになりました。その後、天文四年宮川安定が城郭を築き永禄二年大垣城主氏鉄ト全が城郭の建築工事をほどこしました。
天正十三年九月、豊臣秀吉は一柳直末を大垣城主として天守閣の造営を命じました。この工事は天正十六年七月になって完成し、その後改修を経て、以来この天守閣は四層四階建て総塗りこめ様式で大変優美な城として歴史のうえからも貴重なものでした。
昭和十一年国宝に指定され、郷土の博物館として親しまれましたが、昭和二十年の戦災で惜しくも焼失しました。その後お城再建の気運が高まり昭和三十三年五月着工、翌三十四年四月昔のままの姿で竣工したのがこの天守閣です。
大垣城は、牛屋川の天然の外濠にとりいれた要塞堅固な平城で、天文4年(1535)宮川安定によって創建されたと伝えられている。
慶長5年(1600)関ヶ原合戦では、西軍の本拠となり壮絶な攻防戦を繰り広げられたが、戸田家が入城してからは。歴代藩主と共に天下太平の世を謳歌した。
先の戦災で惜しくも天守閣を焼失したが、現在城跡一帯は市民の憩いの場として親しまれている。(大垣教育委員会より)
関ヶ原合戦の時「おあむ」は父山田玄暦たと西軍三成勢に属し大垣城にこもっていた。落城不安がつのるある日、東軍から矢文が届き「玄暦は家康様手習師匠であったので逃す」と伝えた。「おあむ」は父母と西堀端の松から掘のたらい舟に乗り移り西岸に上陸、無事に逃れた。そのうちその松を誰言うとなく「おあむの松」と愛称した。昭和の大戦直前枯れたが植え継ぎ青年の樹とし「二代おあむの松」と命名した。
この出来事は、自叙伝「おあむ物語」として残されている。
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bunken/cn14/pg430.html
おあむ物語に因んで、大垣市観光協会では、たらい舟遊覧を期日限定で行っています。
大垣市観光協会HP
お堀は三重四重になっていた優美な城郭でしたが、現在は外掘の一部を残すのみです。
常盤神社(戸田家歴代藩主を祭神として祀られている)
戸田公入城350年を記念して建設された武家屋敷風の建物で、歴代大垣藩主戸田公の顕彰を中心に、郷土大垣の先賢を偲ぶことができます。また、日本庭園には樹齢500年を超す見事なサツキの盆栽などがあります。(大垣市HPより)
伊勢神宮外宮
伊勢神宮では、今年、式年遷宮は行われます。
ここ外宮(写真)では、10月5日に西側にある新宮(にいみや)にご神体が遷られます(遷御)。
(内宮は10月2日の予定)
式年遷宮は、天武天皇の仰せにより、持統天皇6年(692年)に第1回が行われて以来、1300年年間に渡って受け継がれてきました。今年は62回を数えます。
伊勢神宮の遷宮は、昔から「時代を変える」転換点と言われてきました。
東の御敷地を米座(こめざ、こめくら、よねのくら)、西の御敷地を金座(かねざ、かねくら)と呼びます。
今年は、米座から金座への遷宮です。米座の時は、平和で心穏やかな精神の時代、西の金座の時は波乱、激動、経済の時代と言われて来ました。
正宮
この写真の奥に、新宮があります。現在は白い覆いがかかっています。
別宮 多賀宮・・・たかのみや
多賀宮の新宮
別宮 土宮・・・つちのみや(新宮はまだ出来ていません)
別宮 風宮・・・かぜのみや(新宮は出来ていません)
美濃路 大垣八幡神社
大垣八幡神社は、四季の広場から水門川に沿って北上したどんつきにあります。
以下、HPから由緒の一部を転記
http://ogaki80003.or.jp/yuisyo/index.html
天平勝宝元年(749年)より、大井荘(おおいのしょう現 大垣市)は奈良県は東大寺の荘園(東大寺の領地)であった。
これにより、後醍醐天皇の御世、建武元年(1334年)南都梨原宮(東大寺鎮守の八幡宮也)を手向山八幡宮より当国安八郡大井荘藤江村に勧誘した(現 大垣市藤江町)。
その後、宝徳3年6月(1451年)遮那院条済が現在の大垣市外側町の地に遷座し、遮那院代々別当職となり大垣町及び近傍十八郷(大井荘十八郷)の総社と称した(この大井荘十八郷は往古南都東大寺の寺領となりし縁故 によるものである)。
岐阜県春日村産の「さざれ石」が奉納されています
日本国歌の意味
(以前の記事から転記http://ameblo.jp/taikoh-tour/entry-11352182783.html )
まず「きみが代は」ですが、「君」ではなく「き」と「み」に分かれているということ。
「き」は「あなた」、「み」は「わたし」、
つまり、あなたと私の世の中という意味。
続いて、「千代に八千代に」とは、「いつまでも平和であるよう」という意味。
次、「さざれ石の巌となりて」は、「さざれ石」をみればわかるように、大小の石ころが重なり合って、大きな一つの岩になっている。つまり、「このさざれ石のように一人ひとりが集まって、強い意志(石)となって」という意味。
最後は、「苔のむすまで」、「永遠に」といういう意味。
大垣八幡神社御祭神:応神天皇 神功皇后 比咩大神
出雲神社御祭神:大国主大神(大黒大神)・美保津姫神・事代主大神(恵比寿大神)
大福稲荷神社御祭神: 宇迦之御魂神
大垣天満宮御祭神:菅原道真
大垣竜神社御祭神:霊蛇神
広瀬神社・龍田神社広瀬神社御祭神: 和加宇賀之売命(若宇加能売命)
龍田神社御祭神: 志那都比古神(天御柱神)・志那都比売神(国御柱神)
美濃路 大垣市奥の細道むすびの地記念館
大垣宿の住吉燈台西側には、平成24年4月8日にオープンした大垣市奥の細道むすびの地記念館があります。松尾芭蕉翁の最大の旅、最長の紀行文が奥の細道であり、そのむすびの地が大垣宿でした。芭蕉は、奥の細道紀行をあわせて4度、ここ大垣に訪れ、同志と親交を深めています。
大垣市奥の細道むすびの地記念館
http://www.city.ogaki.lg.jp/0000012751.html
大垣祭りは、1648年に大垣藩初代藩主戸田氏鉄(うじかね)公が、大垣の総氏神である八幡神社を再建整備されたおり、城下18郷が喜びを神輿3社の寄付で表し、大垣10か町が10両のやまを造って曳回したのが始まりといわれています。
http://www.city.ogaki.lg.jp/0000001311.html
http://tamagoya-h.ftw.jp/index.html
大垣市奥の細道むすびの地記念館の南向かいにある隠れ家的雰囲気のカフェ「はるにれ」さん
自家製チーズケーキのお持ち帰りもできるカフェ「CHEESECAKE PRINCESS」さん