太田忠の縦横無尽 -178ページ目
2009年05月20日(水)

ジャンボ宝くじ1等当選確率=交通事故で450回死ぬ確率

テーマ:経済・社会

宝くじの季節がやってきた。

またあのいかがわしい浮かれたCMとともにやってきた。


「今年のドリームジャンボ宝くじは、1等が2億円、前後賞が各5000万円で、1等・前後賞あわせて3億円が当る超大型賞金が魅力の宝くじです。当せん本数は、1等が27本、続く2等も1億円が81本用意されており、1等の27本と合わせて108人もの億万長者が誕生します。また、3等1000万円も270本用意されるなど、まさに『ドリームジャンボ宝くじ』の名にふさわしい夢のような賞金体系となっています」


毎度のことながら、こうした謳い文句は悪夢としか思えないのだが、昨日たまたま財団法人日本宝くじ協会のHPを見ていてとんでもない発見をしてしまった。「宝くじ資料・データ」に次のような記述があったからだ。「最近1年間に1回以上の購入経験のある人(宝くじ人口と呼ぶそうだ)が51.5%にも上り、しかも最も購入するのが働き盛りの管理職です」とのことである。そんなに宝くじ人口はすごかったのか、と驚くとともに、「一家の主が何やってんだか」となじりたくなった。「しっかりしろよ、オヤジ」と檄を飛ばす元気も出てこない。


ジャンボ宝くじは1ユニット1000万枚を発行する。1枚300円なので30億円だ。1等はそのうちのわずか1本。27本の1等ということなので、今回は27ユニットの販売で売上高は〆て810億円ナリ。世界不況のさなか、ものすごい金額だ。


さて、1000万本のうち1本が当せんとなるのでその確率は0.0000001。宝くじを買うときに「ひょっとして私が当るかも」という淡い期待が果たしてどれくらいの難しさかを実感してもらうために、こういう計算をしてみた。それは1年間に交通事故で死ぬ確率である。年間5700名の人々が不幸にして交通事故で死亡している。日本の人口は1億2593万人。これを割り算すると、0.000045。0.000045÷0.0000001=450という答えが出てくるため、1枚買って1等に当る確率は、その人がこれから1年間で交通事故で450回も死ぬ恐怖を味わう確率と同じ価値を持っている。もし10枚買えば45回にまで恐怖は軽減されるがそれでも大変な数字だ。仮に、たった1回死ぬ確率まで下げたい、というのならば450枚買おう。だが、果たして13万5000円もの大金をつぎ込めるかどうか。


1等賞金は昔に比べると大幅に上昇している。ちなみに10年前は6000万円(1ユニット3本の当せん)だったが、今や2億円である。「夢はどんどん大きくなっているな」と感心していたら大間違いである。いわゆる胴元が懐に入れる割合は10年前の52.7%から62.3%にまで大幅アップしているのだ(そんなことは全く宣伝されていない)。裏を返せば、宝くじ購入者に還元される割合(期待値)は47.3%から37.7%にまで激減した(2等、3等、4等の当せん本数が大幅に削減されたため)。これは、絶対に1等を当てたいからといって、1ユニット30億円全部の宝くじを買っても11.3億円しか戻ってこないことを意味する。実に62.3%ものお金を失う。


リーマンショックが起こり、昨年の10月には世界のあらゆるリスクアセットが一瞬にして半分になってしまったが、宝くじを買うということは、買った瞬間に62%のお金を失うゲームというのが本質であり、宝くじマニアは毎回、自ら進んでリーマンショックと同質のゲームを体験していることになる。


一人で買ってもなかなか当らないから宝くじを共同購入するということもおこなわれているようであるが、期待値が上がるわけではない。たしか昔、過疎の村でお金を出し合って、大きな賞金を当てたというニュースを見た覚えがあるが、それは単に運が良かっただけの話である。


「夢を買う」などとユメユメ言わないでもらいたい。「妄想に毒される」というのが正しい。それくらいとんでもない賭けのレベルである。「夢を見ながら、地方自治体に協力する」と言えば美しいが、正直言って賛同できない考え方である。3000円、10000円のお金を出して宝くじを買うのならば、子供や奥さんに何かプレゼントしたほうがよっぽど幸福な体験ができると思うのだが。


太田忠の縦横無尽 2009.5.20

「ジャンボ宝くじ1等当選確率=交通事故で450回死ぬ確率」

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2009年05月16日(土)

健康保険被保険者証

テーマ:経済・社会

会社に勤務していれば、当然のことながら健康保険の被保険者となり、保険証を会社からもらう。


会社を設立するにあたって、健康保険および厚生年金の加入業者としての登録を済ませ、「健康保険被保険者証」を受け取った際に、「やっと事業者として認められたか」と安堵するとともに、ちょっとしたサプライズだった。


何がサプライズかというと、それは被保険者ひとりひとりにちゃんとしたプラスチックのカードが配られたからだ。22年の社会人生活において初めてのことである。従来は世帯主あてにみすぼらしい一枚の紙の保険証しかもらったことはなかった。2年ほど前にさる企業のIR担当者となぜか保険証の話に及んだとき、「え、太田さんところはまだ紙一枚なんですか。うちなんか、家族全員分それぞれカードを持っていますよ」と言われ、初めてその存在を知ったのであった。


これだけの情報社会になって、家族に一枚の保険証しかないというのは不便極まりない。しかも家族がばらばらの場合はどうするのだろう。自宅が静岡、父親は単身赴任で名古屋、息子は大阪の大学、娘は東京の短大と別々に住んでいる場合など、1枚の保険証がタイムリーに使えないではないか。そんなことは全く考慮されていないわけで、はなはだバカげた制度だと感じていたのが、実際に家族全員分のカードをもらってそのありがたみを実感した。よし、これで、いつでも自由に病気になれる。


ところで、このカードの裏面には以下のようなおそろしい設問があるのだ。紙の保険証では見たことがない、驚きの設問である。


※以下の欄は臓器提供に関する意思表示する欄として使用できます。記入する場合は、該当する1~3の番号を○で囲んだ上で提供したい臓器を○で囲んで下さい。

1 私は、脳死の判定に従い、脳死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。

(×をつけた臓器は提供しません。)

  心臓・肺・肝臓・腎臓・膵臓・小腸・眼球・その他(    )

2 私は、心臓が停止した死後、移植の為に○で囲んだ臓器を提供します。

(×をつけた臓器は提供しません。)

  腎臓・膵臓・眼球・その他(    )

3 私は、臓器を提供しません。


これを見た瞬間、思わず不快感を催したが、迷うことなく3番に○をつけた。「私は、臓器を提供しません」である。


選択肢が設けられている以上、どれを選ぶかは個人の自由である。これらの設問に対していろんな考え方があると思うが、私が3番に○をした理由は、そもそも人間だけが臓器のやり取りをおこなうこと自体不自然であるからだ。人間も生物の一種としてこの世に生まれてくる以上、それぞれの生い立ちや、状況を受け止めつつ生命を全うするのが自然界の法則だと考えている私には、安易に臓器をやり取りしたり、リサイクルするという考え方には反対だ。悲しむべき極端な例ではカネで「臓器売買」が今だにおこなわれており、人間のエゴが生み出した反自然行為だと思う。


先日、オバマ大統領がES細胞研究を容認した。個人的には断固拒否の姿勢をとっていた前ブッシュ大統領を評価する数少ないポイントの一つだったのだが、残念ながら覆された。「難病治療」「医療の進歩」という大義名分だそうだが、そもそもこれは倫理を喪失する行為であり、一度それを許すと人間はどんどん暴走する。そういう神の意思に反することを認めるのはおかしいのではないか。


私が仮に障害者で何かの臓器を移植してもらえば、寿命が延びる立場にあったとしよう。だが、日本では提供の可能性が少ない臓器を大規模な募金活動をして海外にまで求めるなどということは絶対にしたくない(諸外国から酷評されている)。自分の境遇を受け入れつつ、健常者よりも早く死んでいくことを間違いなく選ぶ。


太田忠の縦横無尽 2009.5.16

「健康保険被保険者証」

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2009年05月13日(水)

いつも核心から遠ざかりたい「政治屋」「官僚屋」たち

テーマ:経済・社会

今に始まったことではないが、政治家や官僚といった国家の中枢にある人たちは、情勢が不利になると、どうしてああもミエミエの不恰好な態度を周囲にさらけ出しつつ「核心」からどんどん遠ざかろうとするのだろうか。


民主党の小沢氏は結局、自分の秘書が逮捕されたにもかかわらず党首を辞任する会見において、その理由に西松問題を正面から言及することはなかった。社長と秘書の関係ならば、社長が秘書の長年の行動を把握していないことはありえないし、全く知らなかったというのはもっとあってはならないことである。だから、小沢氏に対する国民の疑念は深まるばかりだ。


今日、鴻池官房副長官が辞任した。週刊誌に女性問題を報じられて、「健康上の理由」というところがまた毎度のパターンである。病院に逃げ込んで入院しているらしい。もし、ウソの報道ならば、当然堂々とメディアに向かって発言するはずだが、どうやらこそこそとしなければならない状況のようだ。女性と熱海にゴルフ旅行に出かける元気のある人が、何で突然入院するのだろう。おかしくて思わず吹き出した。「女性を旅行に連れて、公私混同をした責任を取ります」と素直に言えばいいのに、雲隠れという一番不利な状況に自分を追いやるところに哀れなる救いようのない小心さを感じる。68歳にもなってあんな人間にはなりたくないものだ。私が彼の立場ならば「女性を旅行に連れて、公私混同の責任を取ります。申し訳ございません」と神妙に述べた上で「え、旅行ですか? いや、それは楽しかったですよ」とくらいは言ってみたい。それが68歳の責任の取り方だろう。


そういえば、安倍総理の時も、閉塞感きわまったところで病院へ逃げ込んだのを思い出した。「入院」というのは一般的な感覚からすると、絶対安静が強要され、通常の活動ができない状況が数週間~数ヶ月続くことを意味する。ところが、ほとぼりがさめたらすぐに飄々と活動し始めた。大病の面影はまるでなく、都合の悪いときだけ病気になるという病気のようだ。


福田総理のケースも思い出した。いつも人ごとのようにしか総理の仕事をしていなかったが、官房長官のときに自分の年金未納問題を鋭く突かれて、「それはプライバシーの問題ですから」と逃げ回っていた頃から不快な人物だった。


株式市場で言うところの「説明責任」は、株主に対して本当に重い責任が課されている。経営状況が悪くなり、自分が不利な立場に立たされても病院に逃げ込むようなことは許されない。政治家や官僚の「説明責任を果たした」というレベルとは、月とスッポンくらいの差があると私は考えている。少し前に麻生総理は市場関係者を指して「株屋」と言ったが、説明責任においては、彼らのほうこそ「政治屋」であり「官僚屋」であると私は言いたい。


都合が悪くなると「核心」から遠ざかろうとするのは、最も程度の低い人間のやることであり、そういう人間が数多く要職にいて、こそこそすることをいつも不愉快に思う。


太田忠の縦横無尽 2009.5.13

いつも核心から遠ざかりたい「政治屋」「官僚屋」たち

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