「もったいない」も行き過ぎれば「みっともない」? | 太田忠の縦横無尽

「もったいない」も行き過ぎれば「みっともない」?

性分として、けっこう物は大事に使いたいほうである。「もったいない」を美意識として至上主義にしているわけではないのだが、お金を出して何かを「買った」以上、少なくともそれは自分の意思で選んだものであり、よっぽど失敗した買い物ではない限りは、そうそう粗末にしたくはない。


そういう習慣の中で一番特徴的なのは、私の場合洋服である。もっと正確に言うと普段着である。現在はいているジーパンが今年の初めにひざのところの青い生地が完全に消滅して、中の白糸だけが露出する状態になった。これが3月に入ると左のひざで2ヶ所、右のひざで1ヶ所それぞれ10センチほどの長さに急速に成長し、しかも左の1ヶ所は白糸が切れて完全にひざがむき出しになってしまった。


街を歩いていると、破れたジーンズをはいている多くの若者に出くわす。「自分のジーパンもとうとう今風になったぞ」と妻に得意げに言うと、「あれはファッション。あなたのはボロ」という予期せぬ言葉が返ってきた。私はてっきり、穴が開くまでジーンズをはいたものだと思って感心していたのだが、そもそも最初から穴の開いたジーンズが売られているという。それを買ってはいているのが今の若者だそうだ。何だか狐につままれたような感じだ(穴の開いたものをわざわざなぜ買うのか、という疑問しか私には出てこない)。


「みっともないから捨てればどう」と言われるが、冗談ではない。最近これをはいたまま堂々と外出している。誰も擦り切れるまではいたボロジーンズだと思わない。何だかボロがファッションに勝手に格上げされたような心地良さである。


これを果たしていつ買ったのだろうか。思い出した。30歳の頃である。なぜ買ったのかも思い出した。前にはいていたジーパンが同じような状態になり、それを処分せざるを得ないようになったのだ。それを買ったのが実は高校生の頃である。ということは13年くらいはいたことになる。そして、今度は14年の時を経て同じく寿命を迎えつつある(ウエストが変わっていないことを証明)。しかし、当時は穴の開いたジーパンをはくのはみすぼらしい以外の何ものでもなかったが、今やファッションに昇格したのだ。


もう少しはいてやろうと思っている。そういえば、2月頃に私のパジャマが同じように擦り切れて穴が開いたのだが、それに気がついたとみえて勝手に処分されていた。もう少し着ようと思っていたのだが、妻に聞いてみると「みっともないから」というつれない返事だった。8年間ともにした相手に挨拶もせず姿が見えなくなったのは実に寂しい。そういえば、昨夏もお気に入りの緑の半そでシャツが突然いなくなった。10年くらい生活をともにした。


漫画の登場人物はいつも同じ服を着ている(話のたびに変わっていたら、人物像としてアイデンティティーがなくなってしまうからだろう)。あそこまで徹底しようと思わないが、居心地の良い服やズボンならばいつも身につけているのが私の性分である。だから、夏用・冬用ともに持っている点数が異様に少ない。この習性は学生の頃からちっとも変わらない。