中村ただし オフィシャルブログ

次世代政策研究会 会長 中村匡志


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来たる12月12日(土)に開催されます次世代の党埼玉連絡所のイフコン・タウンミーティングでは、前衆議院議員である杉田水脈(みお)先生に「国際社会と日本の女性」のご講演をいただきます。杉田先生は、いわゆる慰安婦捏造問題の解明にあたって国会の内外で尽力された方であり、当日は、捏造によってアメリカでいじめに苦しんでいる子どもたちやそのお母さんたちに関するお話なども聴くことができると思います。まだお席はございますので、是非ご予約ください(お申し込みは下記画像の電話またはメールまで)。


それでは、今回も、私が日本会議久喜支部にてお話しさせていただいている憲法改正入門講義の内容を、掲載してまいりたいと思います。

第4回は、「《国体》と《憲法》~カール・シュミットの「具体的秩序」論」です。ごゆっくりとお楽しみください(以下は、実際にお話しした内容を、読みやすさ等の観点から編集したものです)。

◇ ◇ ◇


皆さんこんにちは。本日もどうぞよろしくお願いいたします。

本日は、2つ資料をお配りしたのですが、


こちら「憲法改正入門講座第4回 概要」という資料(上掲)と、それから、「カール・シュミット『三種類の法学的思考について』」という資料(後掲)、この2つがありますので、ちょっと確認していただければと思います。

このうち、本日は、この「概要」の「Ⅰ」の部分を何とか終わらせたいなと思っておりまして、「Ⅱ」以降は、次回以降ということにしようかなと思っております。まぁ可能であれば「Ⅱ」の冒頭ぐらいまでは進みたいなぁと思っております。

それで、これまでどういうお話をしてきたかといいますと、最初にグリムの話をさせていただいて、結論としては、憲法改正あるいは自主憲法制定という場合にどういうことをしなければいけないか、その際に出発点をどこに置くかという話なんですが、「大日本帝国憲法」に出発点を置くのでもなく、「日本国憲法」に出発点を置くのでもなく、《国体》というものを出発点に置かなければならない、というお話をしたと思うんですね。そして、新たに制定する憲法、あるいは、現在の憲法を改正して実現する憲法というものは、内容として、その《国体》を具現化するものでなければいけない。それで、《国体》というのをどのように我々は知ることができるか--これまで、GHQの力によって《国体》というのは我々にとってだんだん分からないものになってしまってきているわけですけれども、それをまず取り戻さなければいけない。《国体》というものを我々が知るにはどうすればいいかというと、これは日本の国の歴史であるとか伝統であるとか、そこから汲み出して行かなければいけないということでございます。

先程我々が読んだ日本会議の綱領の第1条にも

「我々は、悠久の歴史に育まれた伝統と文化を継承し、健全なる国民精神の興隆を期す。」

とありますし、基本運動方針の第2条にも

わが国本来の国柄に基づく「新憲法」の制定を推進する。」

とありますから、我々日本会議としては、まさにこの方向性にのっとって憲法というものを新たにつくっていかなければならない。そしてその際に、もちろん手続も重要なのですけれども、大事なのは中身であるということで、《国体》というものをしっかりと反映させた憲法をつくるということをしていかなければならない、ということでございます。

ところが、その作業が実はそれほど簡単ではない、というお話を「Ⅰ」でさせていただいて、それから、「Ⅱ」に入って、《国体》というものの内容を憲法に落とし込むと具体的にどうなっていくか、というお話をさせていただきたいと思っております。そして、その際に、もう1つお配りした「カール・シュミット『三種類の法学的思考について』」(Über die drei Arten des rechtswissenschaftlichen Denkens)という論文のお話を前提としてさせていただかなければならないということになります。

我々が法律を勉強し始めたときに、一番最初にどんなことを習うかといいますと、英米法大陸法の違いというものをまず勉強するわけですね。すなわち、「我々日本というのはドイツから法体系を継受した(受け継いだ)」という風に言われていて、「だから我々日本国というのは大陸法国です」ということを教わりまして、それで、それに対して英米法というものがあると。大陸法の「大陸」というのはヨーロッパ大陸のことを指しておりまして、もともとローマ法というものが存在していたのが、それを受け継いで、イタリア法であるとか、フランス法であるとか、あるいはドイツ法であるとかというものができて、これがいわゆる大陸法を成している。それに対してイングランド(イギリス全体ではなくてイギリスの中核をなすイングランドの部分)と、あとアメリカで使っている法体系というのは、大陸法とは全く異なる法体系である。これが英米法と呼ばれている。こういうことをまず勉強します。

では、具体的にどう違うかというと、大陸法というのは「規範」(Normen)というものを重視する--あるいは制定法主義ということを言われるんですが、要するに、「法律」(Gesetze)というものを制定して、一応それが主たる法源、つまり《法》の源である、という考え方をするのが大陸法諸国の考え方なんですね。ですから、日本においても「法学部に行って勉強する」というと「六法全書勉強するんでしょ?」という話になるわけですよね。

ところが、アメリカやイングランドにおいては、これとはちょっと違う考え方をしておりまして、アメリカのローファーム(law firm)に関する映画とかを観ると分かるのですけれども、向こうの弁護士というのは、とにかく「判例」(case)を探してくるというのが仕事なんですね。裁判勝つには判例を探してこなきゃいけない。なぜかというと、彼らにとっては《法》というのは、まずは「判例」であるという風に考えているんですね。判例というのは何かというと、具体的な事件があって、それに対して裁判官がどのような判断を下したか、どのような判決を下したかというのが集積していって、それが判例、あるいは判例法(case law)というものになるわけです。

法系傾向《法》のイメージ
大陸法制定法主義
(規範主義 - Normativismus)
法律
(抽象的な規範)
英米法判例法主義
(決断主義 - Dezisionismus)
判例
(裁判官の判断)

ということで、図式的に示すと、大陸法国というのは制定法主義であって、大陸法国における法のイメージというのは制定法、あるいは法律であると考えられているのに対して、英米法国というのは判例法国であって、英米法国においては判例というものが主たる法源であるという風にイメージされている。こういうことを、我々が法律を学ぶ時にまず勉強するんですね。

ところが、こういう一般的に流布している《法》の捉え方の理解に対して、「それはおかしいんじゃないか」ということを、このカール・シュミットの論文では言っているわけなんですね。その2つじゃないんだと。もう1つあるんだということを言っているのがこの論文です。それでは早速読んでいきましょう。

 「意識的にせよ無意識にせよ、「法」(Recht)という概念を基に仕事をしている法律家というものは誰でも、この法というものを、①〔抽象的な〕ルール(Regel)、②〔人間による〕判断・決断(Entscheidung)、③〔自分の生きる世の中の〕具体的な仕組・秩序(Ordnung)や型・構成(Gestaltung)、のいずれかとして捉えています。このいずれに該るかという点によって、本書において分類する三種類の法学的思考というものが決まってきます。
 どんな法学的思考も、①ルール〔→法令〕、②判断・決断〔→判例〕、③仕組・秩序〔→制度〕および型・構成〔→(国の)かたち〕の3つすべてを使って仕事をしています。しかしながら、法学的に表される《究極的》なイメージ(そこからその他2つのイメージが法学的に演繹される、という意味で究極的なもの)は、常に1つだけです。すなわち、(ルールと法律という意味での)規範か、それとも判断・決断か、それとも具体的な仕組・秩序かのいずれかなのです。〔…〕例えば、中世のアリストテレス的・トマス主義的な自然法というのは法学的な仕組・秩序思考であるのに対して、17世紀・18世紀の理性法というのは、部分的には抽象的な規範主義、部分的には決断主義であるわけです。」(Schmitt, Über die drei Arten des rechtswissenschaftlichen Denkens, 2. Aufl., Berlin 1993 (unveränd. Ausg. der 1. Aufl., Hamburg 1934), S. 8を翻訳して引用。以下同様)
 「規範主義的思考は、《無人的》(unpersönlich)であり客観的であることに依拠しうるのに対し、判断・決断というのは常に《人的》(persönlich)なものであり、また、具体的な仕組・秩序というのは《人間超越的》(überpersönlich)なものです。」(a.a.O., S. 12)
 「法律家の間で決断主義のタイプが特に広まっているのは、法科の授業と、法実務に直接に役立つかたちの法学というものが、一切の法的問題を《紛争事件》の観点からのみ眺め、単に裁判官の《紛争の判断・決断(裁判)》の準備を整えさせるだけの存在に成り下がる傾向があるからです。これは、一定の試験準備の方法と法科試験の方法のために、《事件に関する判断・決断》と《成文規範の文言からの規範主義的な「理由付け」》についての応答力とその迅速さという、さらに雑なものへと成り下がっています。かくして、法学的思考は、もっぱら衝突や紛争の事件のみを志向するものとなってしまっています。「紛争や利益相反、すなわち具体的な《無秩序》が《判断・決断》によって初めて克服されて、《秩序》へと戻る」というようなイメージが支配的となってしまっています。〔…〕
 実は、この種の法学への傾向が生ずるのは、完結的な《法典》が国の上級公務員たる職業裁判官にとっての「実定」規範や「実定法」として規準を与えるものとなり、そして、このような裁判官の思考に順応した弁護士・検察官にとっての「実定」規範や「実定法」として規準を与えるものとなる場合なのです。このような実証主義は、《法律規範》を《法》と同一視するものであり--たとい慣習法の可能性を認めていたとしても--《法》を知るのではなくて、規範として固定化した《法令適合性》(Legalität)を知るにすぎないのです。19世紀に法実証主義が支配的となった2つの大国、すなわちドイツとフランスにおいては、この法実証主義というものをもっぱら《上級国家公務員たる職業裁判官の国家法令適合性の作用様式》とのみ理解しなければならないことが示されました(この法実証主義の基盤となったのは、内政秩序と安全保障が安定していたことであり、この法実証主義の帰結は、成文法典が制定されたことです)。」(a.a.O., S. 24 f.)
 「これに対して、中世のゲルマン的思考は、徹頭徹尾、具体的な仕組・秩序の思考であったわけですが、この考え方は、ドイツにおけるローマ法の継受によって、15世紀以来ドイツの法律家から排除されていき、そして、抽象的な規範主義が促進されていったわけです。19世紀には、それと同じくらい影響力のある第2の継受、すなわち自由主義的・立憲主義的な憲法規範主義によって、ドイツの憲法思考は、ドイツ内部の問題の具体的な現実から引っこ抜かれて、「法治国」的な規範思考へと枉げられてしまったのです。外来の法体系の継受がこのような効果をもつのは、当然のことです。政治の世界の型・構成と、法の世界特有の思考法・議論法とは、常に、直接的・相互的な関係にあります。例えば、封建的な公共における法感情・法実務・法理論と、市民法(民法)的な手形条例の取引法的な思考とは、法学的な個々の立証の方法と内容によってのみ区別されるのではありません。法学的思考様式を法学的に分類する上でより重要でより深い意義を有するのは、《この両者の違いというものが、前提となる基底的な仕組・秩序全体のイメージの違いとして表現される》ということであり、また、「《通常の状況》とみなしうるのはどのような状況であるのか」、「《通常人》とはどのような人か」、「法の世界や法的思考においては、正しい(と判定すべき)生活のどのような具体像が《典型的》なものと想定されなければならないか」についてのイメージの違いとして表現される、ということです。(不断・不可避・不可欠のものとしての)具体的な《推定》というものがなければ、法学的な理論も法学的な実務もなくなってしまうことでしょうが、この法的推定というものは、《通常と想定される状況》と《通常と想定される人間のタイプ》という前提から直接に生ずるものなのです。したがって、この法的推定は、時代によっても民族によっても異なりますし、また、法学的思考の種類によっても異なるわけです。」(a.a.O., S. 9)

要するに、大陸法の国みたいに「法律が法だ」という考え方と、英米法の国みたいに「判例が法だ」という考え方のほかに、「具体的な秩序こそが法である」という考え方があるということを、シュミットはこの論文において述べているんですね。それでは、この「具体的な秩序」というのは何なのかというと、この講義の第1回と第2回に、ドイツにおいては《ゲルマン法》というものがあるというお話をしたかと思うのですけれども、この《ゲルマン法》というものは、まさにこの「具体的秩序」の一つである(しかし、それが「法実証主義」の所為で失われてしまいつつある)ということなのです。そして、《ゲルマン法》と同じく、他ならぬ我が日本国の《国体》も、まさにこの「具体的秩序」であるという風に考えなければならないわけなのですが、この点については後ほど詳しく見ていくこととして、ここではまず、「具体的秩序」というもののイメージをもう少しくっきりさせるために、《ゲルマン法》の消失と「法実証主義」の擡頭をもたらした第一の要因である「ローマ法の継受」について、第1回の講義の復習をしておきましょう(敢えてあの時とまったく同じ文章を引用しますが、まったく新たな見え方がするはずです)。

「ドイツ法の存在様式を根本的に規定している第一の歴史的条件は、ローマ法の継受という事象である。ローマ法は、言うまでもなく、古代ローマ国家において発展を遂げた法であるが、そのローマ法の後代への伝達を可能にしたのは、東ローマ皇帝ユスティニアーヌスの下でのローマ法の法典化事業であった。ユスティニアーヌスは、帝政期の諸立法を法典に収録したばかりでなく、共和政期末から帝政期初頭にかけてのいわゆる「古典時代」の法文を抜粋・編集し、ローマ法黄金期の優れた法的営為の証を法典の中に定着させた。「ローマ法大全(Corpus luris Civilis)」と呼ばれたこのユスティニアーヌスの法典は、東ローマ帝国の国力低下とともに一旦は歴史の舞台から忘れ去られるが、12世紀の北イタリアで再発見されて、まずは文献学的研究の、次いで法学的研究の対象とされ、遂には中世イタリアの都市国家の法実務に適用されるようになる。法典に収録された法文の断片の膨大な寄せ集めは、一千年もの時を隔てた現実の世界にそのまま適用できる代物である筈もなく、望ましい結論を獲得するためには、その法文に様々な形で細工を加えることがどうしても必要であった。中世イタリア法学は、まさにそうした込み入った解釈技術を発展させていた。
 そうした法解釈技術は、ドイツからイタリアの大学に留学した学徒達によって、ドイツに持ち帰られる。彼等は、ドイツの各地で裁判官、行政官などの役職に就き、留学で学んだローマ法解釈技術をドイツの法実務に適用し始める。ローマ法は、そうした過程を通じて、ドイツに継受され、ドイツ全土に共通して通用する法、すなわち「普通法(gemeines Recht)」の最重要な法源となったのである。それは単に「ローマ法大全」という法典を普通法の法源として採用した、というような形式的な事態なのではなくて、膨大な法文の集積を現実の要請に合わせて解釈し、適用するという、高度に専門的な技術の総体が移入されたことを意味する。
 別の側面から見れば、ドイツにはそれまでそうした高度に専門的な法技術は存在しておらず、逆にローマ法の継受によって初めてドイツに専門技術の担い手としての法律家集団が登場したということなのである。この専門的法律家集団の欠如こそが、ドイツの地でローマ法の継受という特有の事態を生じさせた決定的な要因である。すなわち、フランスではローマ法の影響下にあった地域が南部にあったにもかかわらず、北部の慣習法地域ではその慣習法の担い手としての法律家集団が育ち、各地方の慣習法を調査し、成文化しており、ローマ法の浸透をくい止めることができたし、イングランドでは国王の裁判所で活動する法律家達がコモン・ローを維持・発展させて、時代の要請にも充分に応えていたため、自己の権力基盤の強化のためにローマ法の導入をはかった国王の努力も実を結ぶことはなかった。それに対してドイツでは、ローマ法の継受に至るまで、法は専門家が担うものになってはいなかった。
 そのことを何よりも顕著に示すのは、ドイツ古来の裁判の形態、とくにそこで採用されていた判決非難(Urteilsschelte)の制度である。ドイツの諸部族では、部族の首長とそれに従う戦士たちが集う人民集会そのものが裁判所としての機能を果たした。そこでは首長自らが裁判長となったが、その権限は訴訟指揮に限定されており、判決の提案は判決発見人に委ねられた。判決発見人が提案した結論に、裁判集会に参集した者全員が賛同すれば、判決が有効に成立する。裁判集会の参加者一人ひとりは、その判決提案に納得できない場合には、判決を非難する権利を有した。判決非難に際して、非難者は非難と同時に自らが正しいと信ずる判決案を提示しなければならない。判決非難によって、非難者と、判決発見人との間に法的争訟が成立し、その決着は、法廷決闘や宣誓によって付けられたと推測される。
 この判決非難については、19世紀後半の著名な法史学者ハインリヒ・ブルンナー(Heinrich Brunner)の、「判決非難は判決発見人の意見に対してではなくて、意図に対して向けられる」という説明が今日なお援用される。つまり判決非難は、判決発見人が本来は別の判決を提案すべきことを承知していながら、故意に法を柾げて誤った判決を提案した、ということに向けられたのだ、というのである。これは、裁判集会に参集した人々、言い換えれば当該法共同体の構成員のすべてが、何が法であるのか、ということについて共通の理解を有している、ということを前提にしている。つまり、このような法共同体においては、法は、法共同体構成員の全員が共有する法的確信というかたちで存在するに過ぎず、それを超えた専門的な法的観念は、およそ存在の余地がなかったのである。判決発見人は、ゲルマン世界における最初の「職業的裁判官」(ハインリヒ・ミッタイス(Heinrich Mitteis))ではあるが、法的見識に関して何らの特別の権威を認められず、常に法共同体構成員一人ひとりの非難に曝されていた。
 このような状態では、専門家の担う法的営為は発展困難であり、ローマ法というまったく異質の専門的学識法の流入に抵抗する、固有法の担い手としての専門法律家集団は育たないままだったのである。ドイツの地で、他の西欧諸国とは異なってローマ法の継受が行われたのは、まさにこのような事情によるのであった。」(海老原明夫「ドイツ法」(北村一郎編『アクセスガイド外国法』151頁以下)154頁以下)

つまり、《ゲルマン法》においては、《法》というものが「法共同体構成員の全員が共有する法的確信」、つまり「一般的法意識」あるいは(もっと平たくいえば)「一般常識」というかたちで存在していたのであり、これこそがシュミットのいう「具体的秩序」であったわけです。シュミットの論文でも、やや分かりにくいのですが、「法感情・法実務・法理論」とか、「《通常と想定される状況》と《通常と想定される人間のタイプ》」とか、いくつかキーワードは出てきておりまして、これは要するに「共同体において何が正常なことと考えられているか」ということ(「常識」)こそが「具体的秩序」であるということなのです。このことをもうちょっと掘り下げて具体的に理解するために、シュミットの論文をもう少し読み進めていきたいと思います。

 「〔制度体(Institution)の《かたち》をとるすべての生活領域〕は、固有の法的な《実体》(Substanz)を有していて、その《実体》にあってはおそらく一般的なルールも存在している(しかも、そのルール通りに動いている)わけですが、それは、《実体》から湧き出してくるもの、固有の具体的な内部秩序から導かれるものにすぎないわけで、他方、例のルールや機能・作用を足し合わせてみても、この内部秩序にはならないわけです。婚姻における夫婦の共同生活、家における家族の共同生活、氏における氏子の共同生活、身分における等族の共同生活、国家における官吏の共同生活、教会における聖職者の共同生活、〔…〕軍隊における軍人の共同生活は、事前に決められた法律の機能主義に解消させることも、契約のルールに解消させることもできないものです。
 こういった秩序の内部における数多くの慣習・ルール(通りであること)・予測可能性によって、当該秩序の本質を把握すること、当該秩序の本質を網羅することは不可能ですし、また、そんなことをすべきでもなくて、これらのものは、当該秩序の召使いにすぎないわけです。どんな制度体であっても、その具体的な内部秩序・規律・名誉というのは、その制度体が続く限り、すみずみまで規範化・ルール化してしまおうとするいかなる試みにも屈することはありません。〔しかしながら、〕それによって、立法者と法律適用者は、「制度体とともに与えられる具体的な法概念を受容して適用するか、それとも、制度体を破壊してしまうか」というジレンマに陥ることになるのです。」(Schmitt, a.a.O., S. 17)
 「サンティ・ロマーノは、その著書『法秩序』(L’Ordinamento giuridico)で、「イタリア法とかフランス法などといってルールの集積を考えるのは間違いであって、本当は、まずもってイタリアやフランスの《国》という多種多様の複雑な《組織》が具体的な《秩序》としてこれらの《法》をなしているのであって、国家権威・国家権力を有する数多くの判断主体や結合関係が法規範を産出し、変更し、適用し、保障するけれども、これらの判断主体や結合関係がこれらの規範と同一化してしまうことはない」と言っておりますが、これは正しいです。まさにこれこそが、イタリア法ないしフランス法なのです。「法秩序は、チェス盤上の駒のごとく、ルールにのっとって動くこともあるが、とりわけ、自らルールを動かすこともあるような単一存在、実在なのです。したがって、ルールはむしろ、法秩序の客体または手段なのであって、それほど法秩序の構造の要素ではないのです」。ロマーノは「規範の変更は、秩序の変更の原因というよりはむしろ帰結である」と付言していますが、これは正鵠を射ています。」(a.a.O., S. 20)

ここでまずシュミットは婚姻、つまり結婚を「具体的秩序」の一つの例として挙げているわけですが、法律の条文には、結婚というものについてもいろいろルールがありまして、例えば、日本の民法752条には、

「夫婦は同居し、互いに協力し扶助しなければならない。」

という規定があります。これを法律家は、夫婦の同居義務・協力義務・扶助義務と呼んでおります(「義務」とは、しなければならないこと。「扶助」とは、助け合うこと)。あるいは、民法の条文にはありませんけれども、判例では、夫婦の間で貞操義務という義務も認められております(「貞操」とは、結婚相手以外とは性交渉を持たないこと)。

要するに、「別の人と性交渉を持ってはいけない」とか、あるいは、「夫婦は助け合わなければいけない」とか、「一緒に住まなければいけない」とか、民法にはいろいろルールが決められているわけですけれども、それでは、こういったルールを全部足し合わせたら「結婚」になるかといったら、それはそうではないのですよね。まず「結婚」という社会的な《実体》があって、そこから「結婚というのはこういうもんだよな」という、みんながそういうイメージ(一般常識、一般的法意識)を持っていて、それで「結婚というものは、多分、お互いに助け合う関係だよな」ということを、そっちの方から導いているわけなんですよね。ですから、扶助義務とか同居義務とか、あるいは貞操義務という、そういうところから「結婚」というものが導かれるのではなくて、逆に、「結婚」のほうがまずあって、そこからルールが導かれる、というそういう関係にあるわけなんですね。

そして、まさに《国体》の話もそういう話であるわけでして、①まず「具体的な秩序」としての《国体》という社会的な《実体》が存在していて、だからまず我々は《国体》というものを知らなければいけないのであって、そして、②《国体》というものが分かった上で、初めて、「憲法」というものを構想する、「こういうルールがなければいけないよね」ということを考えていく、という順番で、物事を論じていかなければいけないと思うんですね。

ところが、それはそんなに簡単なことではなくて、だからシュミットも

「立法者と法律適用者は、「制度体とともに与えられる具体的な法概念を受容して適用するか、それとも、制度体を破壊してしまうか」というジレンマに陥る」

という警告を発しておりますけれども、「具体的秩序」である《国体》を「ルール」である《憲法》に落とし込んでいく憲法の起草作業というのは、本当に難しい作業であって、一つ間違うと国の命運を左右するとんでもないことが起こってしまいますから、とりわけ慎重さが必要な作業なのです。そういう意味で、実は、かつての「大日本帝国憲法」の起草作業というのはいくつか失敗していると私は思っておりまして、このうち、一番大きな失敗は何かというと、これは大日本帝国憲法4条だと思うんですね。4条というのは、

「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」

という条文ですけれども、ここで「統治権」(Hoheit、Hoheitsrecht/e、imperium)という西洋の概念を使ったのは、我が国の《国体》を捻じ曲げてしまう根本的な原因になったように思うのです。そして、この条文の解釈学説として主張されたのが、いわゆる天皇主権説という学説でございまして、この「主権」という概念にもいろいろな理解があるのですけれども、この場合、天皇主権説というのはどういう風に理解されているかというと、「天皇が《支配》の主体である」というようなかたちで理解されてしまっているわけです。これは、なぜかというと、「主権」(Souveränität)という概念がもともとヨーロッパから由来するものであって、ヨーロッパにおいては国を統治するという場合には、必ず《支配》(Herrschaft)の関係になるからです。例えば、「デモクラシー」(民主制)といったら民衆が支配するし、「アリストクラシー」(貴族制)といったら貴族が支配するわけで、誰が支配するか(「支配の主体」)の部分が違うわけですけれども、いずれにせよ《支配する人》がいて《支配される人》がいるという、そういう構造が統治の根本をなしているわけなんですね。

ところが、日本の伝統的な統治のあり方である《国体》においては、そもそも《支配する人》というのが存在しないのです。《支配する》というのは、上代の日本語では「うしはく」という言葉で表現しますけれども、『古事記』によると、日本の国土(「葦原の中つ国」)ができてからしばらくの間は、国つ神である大国主命が「うしはく」国であって、要するに、大国主命は、ヨーロッパ的な《支配》の統治方式で国をつくっていったわけですけれども、そのようなやり方ではこの日本国を永続させることができないということで、天照大神は八百万の神々の評議に基づいて、タケミカヅチの神を高天原から葦原の中つ国へと派遣するわけです。いわゆる国譲りのお話ですが、

「ここに天の鳥船の神を建御雷の神に副へて遣はしたまひき。ここをもちてこの二はしらの神、出雲の國の伊那佐(いなさ)の小濱(をばま)に降り到りて、十掬(とつか)劒(つるぎ)を拔きて、逆(さかしま)に浪の穗に刺し立て、その劒の前(さき)に趺(あぐ)み坐(ま)して、その大國主の神に問ひて言(の)りたまひしく、「天照大御神、高木の神の命(みこと)もちて問ひに使はせり。汝(いまし)が領(うしは)ける葦原の中つ國は、我が御子の知らす國ぞと言依さしたまへり。故(かれ)、汝が心は奈何(いか)に。」とのりたまひき。」(『古事記』(倉野憲司校注)60-61頁)
(そこで、アメノトリフネの神をタケミカヅチの神の副官として派遣なさいました。そこで、この二柱の神様は、出雲の国の伊那佐の海岸にご降臨になり、長い剣をお抜きになり、波の上から逆さまに刺して立てられて、その剣の先に胡座をかかれて、大国主の命を尋問して仰せられることには、「天照大神・高木の神(タカミムスビの神)の勅命を受けた尋問の使者でございます。『国つ神であるあなたの《うしはく》葦原の中つ国は、天つ神の皇孫の《しらす》国である』と神勅がございました。そうだとすると、あなたのご意思はいかがでしょうか」と仰せられました。)

「しらす」というのは、なかなか一言で表すのが難しい概念なんですが、ここで明らかなように「うしはく」の対義語であるわけでして、私は、《思いやり》の統治であるという風に理解すると一番分かりやすいと思うんですね。要するに、《君主が国民のことを思いやり、国民が君主のことを思いやる》という、そういう統治のあり方です。実は、「しらす」という語はそれだけではなくて、本当はとても豊かな意味内容をもっているわけなのですけれども、とりあえず、一番核心となるのはそういうことだとご理解いただければと思います。そして、この《思いやり》の統治として最も典型的なのは、仁徳天皇のお話だと思うわけございます。

神格統治形態統治のイメージ
天つ神
(惟神の道=《国体》)
しらす
(しろしめす)
思いやり
(君主が国民を「おおみたから」として敬い、国民が君主を「すめらぎ」として敬う)
国つ神
(《国体》とは異なる統治)
うしはく支配
(君主(Hoheit)が国民(Untertane)を支配する)

実は、『古事記』というのは、上巻・中巻・下巻の3巻から成っていて、上巻は神代のお話で、中巻は神武天皇から始まり、そして下巻はこの仁徳天皇から始まっているのです。本居宣長をはじめ、この編別には特に意味がないという風に考える人も多いのですけれども、中巻が初代天皇である神武天皇のご事蹟から始まっていることに鑑みても、下巻が仁徳天皇から始まっていることにはやはり意味があるのではないかと思うわけです。つまり、上巻の神代は「惟神(かんながら)の道」である《国体》をそのまま体現している世界であるわけですが、歴代天皇の御代々々のうちで、神武天皇の御代と仁徳天皇の御代が特によく《国体》のあり方を体現している聖代である、という風に理解されていたからこそ、編者である太安万侶は、このような編別を採用したのではないかと思うわけです。そういう意味で、仁徳天皇のご事蹟というのは、《国体》、つまり古来からの日本の統治のあり方の最も純粋なかたちを表しているわけです。それによると、

「ある時、天皇が高い山にお登りになって、四方を御覧になって仰せられますには、「国内に烟(けむり)が立っていない。これは国がすべて貧しいからである。それで今から三年の間人民の租税労役をすべて免除せよ」と仰せられました。この故に宮殿が破壊して雨が漏りますけれども修繕なさいません。樋(ひ)を掛けて漏る雨を受けて、漏らない処におうつり遊ばされました。後に国中を御覧になりますと、国に烟が満ちております。そこで人民が富んだとお思いになって、始めて租税労役を命ぜられました。それですから人民が栄えて、労役に出るのに苦しみませんでした。それでこの御世を称えて聖(ひじり)の御世と申します。」(『古事記』(武田祐吉訳註)328-329頁)

今風に言えば減税(免税)政策と経費節減政策ということになりますけれども、重要なのは、これが《思いやり》に基づく君民一体思想に基づくものであったという点です。このことを確かめるために、同じ仁徳天皇のご事蹟について『日本書紀』にもっと詳しい記述がありますので、そちらも読んでみましょう。

「四年春二月六日、群臣に詔して、「高殿に登って遥かにながめると、人家の煙があたりに見られない。これは人民たちが貧しくて、炊(かし)ぐ人がないのだろう。昔、聖王の御世には、人民は君の徳をたたえる声をあげ、家々では平和を喜ぶ歌声があったという。いま自分が政について三年たったが、ほめたたえる声も起こらず、炊煙(すいえん)はまばらになっている。これは五穀実らず百姓が窮乏しているのである。都の内ですらこの様子だから、都の外の遠い国ではどんなであろうか」といわれた。
 三月二十一日、詔して「今後三年間すべて課税をやめ、人民の苦しみを柔げよう」といわれた。この日から御衣や履物は破れるまで使用され、御食物は腐らなければ捨てられず、心をそぎへらし志をつつまやかにして、民の負担を減らされた。宮殿の垣はこわれても作らず、尾根の茅(かや)はくずれても葺かず、雨風が漏れて御衣を濡らしたり、星影が室内から見られる程であった。この後天候も穏やかに、五穀豊穣が続き、三年の間に人民は潤ってきて、徳をほめる声も起こり、炊煙も賑やかになってきた。
 七年夏四月一日、天皇が高殿に登って一望されると、人家の煙は盛んに上っていた。皇后に語られ、「自分はもう富んできた。これなら心配はない」といわれた。皇后が「なんで富んできたといえるのでしょう」といわれると、「人家の煙が国に満ちている。人民が富んでいるからと思われる」と。皇后はまた「宮の垣がくずれて修理もできず、殿舎は破れ御衣が濡れる有様で、なんで富んでいるといえるのでしょう」と。天皇がいわれる。「天が人君を立てるのは、人民の為である。だから人民が根本である。それで古の聖王は、一人でも人民に飢えや寒さに苦しむ者があれば、自分を責められた。人民が貧しいのは自分が貧しいのと同じである。人民が富んだならば自分が富んだことになる。人民が富んでいるのに、人君が貧しいということはないのである」と。〔…〕
 九月、諸国のものが奏請し、「課役が免除されてもう三年になります。そのため宮殿はこわれ、倉は空(から)になりました。いま人民は豊かになって、道に落ちているものも拾いません。つれあいに先立たれた人々もなく、家には蓄えができました。こんなときに税をお払いして、宮室を修理しなかったら、天の罰を被るでしょう」と申し上げた。けれどもまだお許しにならなかった。
 十年冬十月、はじめて課役を命ぜられて宮室を造られた。人民たちは促されなくても、老を助け幼き者もつれて、材を運び土籠を背負った。昼夜を分けず力をつくしたので、幾何(いくばく)も経ずに宮室は整った。それで今に至るまで聖帝とあがめられるのである。」(『日本書紀』(宇治谷孟訳)上巻231-232頁)

つまり、仁徳天皇が丘に登って国民の家を見ていると、煙が上がっておらず、「ああ、ご飯を炊く煙が出ていないということは、ご飯をまともに食べられていないんじゃないか」ということで、ご心配遊ばされて、それでは3年間租税を免除しよう、ということで、まず君主のほうが、国民に対する《思いやり》を示されたわけです。そして、国民が租税を払わなくて済むようになったので、だんだん豊かになっていったわけですね。それで、今度は国民の側から、「豊かになったから、ぜひ租税を収めさせてくれ。国にお金がなければ困るだろう」ということで、今度は国民のほうが君主(あるいは国)に対する《思いやり》を示したわけです。つまり、君主と国民は一体であるという思想のもとにお互いがお互いを思いやるということで、この《思いやり》の統治の関係においては、《支配者》というものはどこにも存在しないわけなんですね。

そして、天皇陛下が自分の身をまったく顧みずにひたすら国民(「おおみたから」)の幸せのみを願われるというお姿(《思いやり》の統治)は、現在に至るまで変わらずにご皇室に脈々と受け継がれているわけです。このことは、『終戦のエンペラー』にも描かれている昭和天皇のマッカーサー元帥に対するおことば(「敗戦に至った戦争の、いろいろの責任が追及されているが、責任はすべて私にある。文武百官は私の任命する所だから、彼等に責任はない。私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委ねする。この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい」)や、東日本大震災の際に天皇陛下が被災者の方々に向けて発せられたビデオメッセージ(いわゆる平成の玉音放送)において、実際に体感することができます。



しかしながら、天皇主権説を主張された穂積八束先生であるとか上杉慎吉先生は--穂積先生にしても上杉先生にしても必ずしも《国体》というものが分かっていなかったのではなくて、あの時代の人ですから、むしろ《国体》というものを非常によく分かっていたわけですけれども--にもかかわらず、日本の《国体》の根幹の部分を西洋の「主権」という概念を使って表現してしまったので、非常に間違った理解が進んでしまったわけなんですね。そして、それが元で、軍の内部においては「皇道派」という考え方の人々が出てきて、まさにドイツの皇帝のような「天皇親政」を実現しようという話が出てきてしまい、最終的には、二・二六事件という国家を揺るがす大事件が惹き起こされてしまうわけです。しかし、この二・二六事件が起こった時に昭和天皇が激怒あそばされたことからも拝察されるように、そもそもドイツの皇帝のような「天皇親政」を実現しようという思想自体が、《国体》というものを正しく理解していなかったということなのです(このことは『古事記』の天孫降臨のお話を読むとよく分かるのですが、今日は時間がありませんのでまたの機会にお話しします)。



それから、天皇機関説事件というのが起こります。これは、美濃部達吉先生が国家主権説という学説を唱えて、この学説は「国家が統治権を有し、天皇は国家の機関である」という学説だったわけですが、これに対して、これは大日本帝国憲法4条の解釈学説である天皇主権説に反するということで、政治問題化して、戦前非常な攻撃を受けたという事件です。この学説がどういうものであったかを知るために、ちょっと資料を読んでみましょう。

「国家学説のうちに、国家法人説というものがある。これは、国家を法律上ひとつの法人だと見る。国家が法人だとすると、君主や、議会や、裁判所は、国家という法人の機関だということになる。この説明を日本にあてはめると、日本国家は法律上はひとつの法人であり、その結果として、天皇は、法人たる日本国家の機関だということになる。……
 これがいわゆる天皇機関説または単に機関説である。
 天皇機関説は、主権または統治権、すなわち、国土・国民を支配する権利は、法人たる国家に帰属する、または、国家がその権利の主体である、と説くから、国家主権説、または国家主体説とも呼ばれることがある。それに対しては、天皇機関説に反対する説は、主権または統治権は、法人たる国家ではなくて、天皇に帰属する、または、天皇がその権利の主体である、と説くから、天皇主権説または天皇主体説とも呼ばれる。
 これらの学説については、法人・機関・主権・統治権といったような概念をじゅうぶんに吟味した上でないと、それらの概念を使っての論議が、科学的には、不十分であることをまぬかれない。しかし、ここで扱う現実の歴史的事件としての天皇機関説事件においては、ほぼ右にのべられた程度の--科学的には、不十分ないし不正確な--理解の上に、事件が展開した〔…〕」(宮澤俊義『天皇機関説事件』上巻6頁)

かく言う宮澤先生が果たして主権概念を「科学的に十分で正確」に理解していたかというのはかなり疑問のあるところで、この点についてはまたの機会にあらためて詳細に検討いたしますけれども、それはともかく、この美濃部先生の国家主権説もまた、「主権」とか「統治権」という西洋の概念を使って我が国の統治のあり方を分析してしまったために、統治というものを《支配》の関係として理解してしまったわけです。ですから、これもまた《国体》の理解としてはまったく間違った学説であったわけです。

そういう意味で、結論としては天皇主権説も国家主権説も両方とも間違っていると思いますので、私としては、この論争自体が大変不毛なものであったと思います。そもそも、日本の《国体》というものを西洋の概念で表現すること自体が間違っているのです。しかし、美濃部先生もまたあの時代の人ですから、《国体》を理解していなかったわけではなくて、表現方法を間違えたということなのでして、国家主権説というのは、要するに、「君主も国民もどちらも主権者ではない」ということを表現した学説でありますから、「我が国の統治においては《支配》の主体は存在しない」という意味では、《国体》の一側面を正しく表現していないこともないのです。だからといって国家主権説が正しいとは言いませんが、いずれにせよ、歴史の経過としては、天皇機関説事件を契機として天皇主権説というものが政府の公式な解釈となって広まってしまったために、みんなが《国体》というものを、恰もヨーロッパの皇帝による《支配》の統治のように誤解する大きな原因となってしまったということなのです。

ですから、この《国体》から「規範」というものを導き出すという作業はそんなに簡単な作業ではないわけでございまして、もし間違ったことをするととんでもないことが起こってしまうのですから、我々はきわめて慎重にこの作業を行っていかなければならない、そして、《国体》というものを歪曲してしまう(「制度体を破壊してしまう」)ことなく我々がこの作業を行うためには、やはり日本人本来のことば--言霊--である《やまとことば》(「制度体とともに与えられる具体的な法概念」)というものを根幹に据えなければならない、というのが、シュミットの所説も踏まえたこの「Ⅰ」の部分の結論となるわけでございます。

というところで、時間がまいりましたので、本日はここまでとさせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)
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