「リアル・写実・真実」と「リアルさ・真実らしさ」 | Tempo rubato

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アニメーター・演出家 平松禎史のブログ

 

 

 

 

『さよならの朝に約束の花をかざろう』

岡田麿里監督 P.A.WORKS制作の長編アニメーション映画。

ボクはパート演出・作画監督で参加しています。

 

公開は2018年2月24日

http://sayoasa.jp/

 

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たまにはアニメ関連の話を。

 

ボクは人物であれ小物や乗り物であれ実在感を出すのが好きなのです。

「実在感」とは別な言い方をすれば「リアルさ」でしょう。

これは「写実」とは別なものだと考えます。

 

 

で、Twitterなどをながめていて時々出くわすのが「リアル・写実」と「リアルさ」の混同。

 

両者は似ているようでまったく違うものと考えます。

 

「リアル・写実」と「リアルらしさ」に似た問題でヒッチコックはこう言っていました。

「真実」と「真実らしさ」は別物と意識して表現しないと映像表現にならない。

 

どういうことだろうか。

 

まずはことばの意味を確認しましょう。

 

【リアル】:現実のこと。また、現実的であるさま。実物そのままであるさま。写実的。

【写実】:物事をありのままに文章や絵などに描くこと。

【真実】:うそいつわりのないこと。ほんとうのこと。また、そのさま。

 

【らし・い】(接尾)

1)…としての特質をよくそなえている、いかにも…の様子である、…にふさわしい、などの意を表す。

2)…という気持ちを起こさせる、…と感じられる、などの意を表す。

(大辞林第三版)

 

「らし・さ」は形容や形容動詞の語幹に付いて名詞化されたもの。

 

つまり

「リアルさ」とは、リアルの特徴をそなえ、いかにもリアルな様子で、リアルにふさわしいこと。

「真実らしさ」とは、真実の特徴をそなえ、いかにも真実な様子で、真実にふさわしいこと、

となります。

 

簡単に言えば、「リアル・写実・真実」がそのものであるのに対して、「リアルさ・真実らしさ」は誰かの主観を通した表現や、表現されたものに言うことばなわけですね。


映像表現の話に戻しまして

 

たとえば、2、3メートルの高さから飛び降りる描写があったとして、実写でもアニメでも着地してそのまま走っていく(次の動作に素早く移る)描写がよくあります。

実際には2、3メートルの高さから飛び降りたら足がしびれてすぐには走れませんし、場合によってはケガをする。

よく鍛えた役者であったり、カットを切り替えて素早く次の動作に移ったように見せているわけですが、それは「リアル・写実・真実」ではあり得ないことを認識した上で、「リアルさ・真実らしさ」を感じられる表現を行っているわけですね。

 

たいていの作り手は無意識にやってきたのだと思いますが、表現方法が限定的だった昔は違いが明確でした。

しかし、CG技術が向上して表現が多様になってくると混同が表現力に影響してきます。

 

いくら技術が向上してこれまでできなかった表現ができたとしても、何十メートルもの高さから飛び降りた人がスッと着地する様をワンカットでそのまま(「リアル・写実・真実」であるかのように)表現してしまうと、もはやそれ自体が「ウソ」になってしまい、「リアルさ・真実らしさ」ではなくなってしまうのだ。

特撮やCG技術が向上し始めた頃、時々見かけましたし、現在でも、あまりに「ありのまま」すぎてかえって「ウソ」に思えてしまう映像は、「リアル・写実・真実」と「リアルさ・真実らしさ」の違いを混同し、表現することの意味が希薄になっているからではないか、と考えます。

 

 

現実の人や物の動きには意味不明で不確実な動きが多く混ざります。

現実のまま表現に落とし込むのも一つのやり方ですが、通常は無意味さや不確実性をかなり排除して、いわば都合の良いところだけを使って表現する。

動きを想像して描くアニメは実写よりこの傾向が強くなりますから、「リアルさ」「真実らしさ」に欠けてしまうのだ。

 

そこで、「リアル・写実・真実」…つまり実写的な要素を盛り込む運動が起こります。

手描き時代もありましたし、現在ではモーションキャプチャーなどCGを使用します。

 

ところが、「アニメキャラクター」に実写的な動きを(モーションキャプチャーやロートスコープそのままで)させると気持ち悪くなることがままある。

「ありのまま」すぎて「ウソ」に思えてしまうことと、アニメキャラ自体が「写実」ではないことが合体して気持ち悪くなってしまうのでしょう。

これを表現としてうまく用いてた例があります。

…ちゃんと見ていないんですが長ハマさん(本来のハマの字は機種依存文字なので…)が監督した『惡の華』は、絵柄を写実寄りにしていましたが、アニメキャラと写実のギャップを利用して独特の味わいを出していた。

既存のアニメ風とも実写とも違う表現に昇華していたと思う。

 

 

ボクは、絵柄自体はできるだけ特殊に見えないように心がけ、その上で「リアル・写実・真実」の要素を活用して「リアルさ・真実らしさ」を表現するのが好きです。

 

 

建物や家具や小物、自動車や電車など、実在のものが出てくる時に、できるだけ本物に忠実に描こうとするのも、架空のアニメキャラの「リアルさ・真実らしさ」を補強する目的であって、実物を忠実に描くことが目的ではないのです。

考え方はキャラクターの延長上にあるので、写真やCGをそのまま使えば良いとは考えない。

 

意味不明さ、不確実性を適度に混ぜるのが肝要だと考えるわけで、そのサジ加減を工夫するのがおもしろいのです。

 

そうするためには、「リアル・写実・真実」と「リアルさ・真実らしさ」は別のもの、と認識しておく必要がある。

混同していると、表現が不明確になってしまい、描きたいことが伝わらなくなる可能性が高まります。

 

そもそも、絵を描くとはそういうことだろうと思う。

写真表現にしても、現実をただ切り取っただけではありませんから。

 

ヒッチコックはこのことをよくわきまえていた監督です。

東宝特撮における円谷英二の映像表現もこの基本を踏まえたものだったと思います。

 

 

 

『さよならの朝に約束の花をかざろう』では、まだ絵素材などの公開が限定的ですが、少しづつ出て来る予定、だそうです。

ボクが担当したパートはまだ秘密ですが、上記のようなことを物語でうまく生かすことができていれば良いと思う。

 

 

 


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