第四章 アリの棲み家
一、ガラス細工のマネキン人形
周囲には広大な草原が拡がっている。遠くの地平線を横切るように大きなドーム型の建造物が目につく。コンクリートのツギハギで造られた壁が弧を描いて空高く続いている。鈍く光る金属製の幾つものドアが建物のまわりをぐるりと囲み、窓はひとつも見当らない。壁に触れた手には建物の冷たさが広がり、腕をつたって心まで凍えそうだ。
オーディルは、目の前の状況が夢か現実か見分けがつかず少し訝った。そしてパブリロを探すために辺りを見渡した。しかし、彼の姿はどこにもなかった。
ぼくは夢を見ているのだろうか。
目覚めると、そこにはふかふかのベッドも心地よいテラスもなく、無防備に草原に転がっていた。ぼくは今、また新たな世界にいる。これは現実なのかな。それともまだ夢の中で・・・。
ぼくは確かに夢を見ていた。夢のなかで真実を語るミュージシャンと語らい、コーヒーを啜っていた。そのとき彼は言ったんだ。既に知っていることを経験するのが生きることだ、って。
そのあと、ぼくは丘の上でグレーの扉を開けた。そこには緩やかに下る階段があってぼくはその階段を下りていった。そして、気が付くとここに居た。
いくら考えたって分からないものは認めようもないけど、とにかくぼくは一歩前へ踏み出したんだ。これが夢ならいずれ消えてしまうだろうし、現実ならこのまま進めばいい。どちらにしても自然に任せてみよう。
オーディルはすっきりした気持ちでこれからの自分の先行きに心を躍らせた。そして、円形ドームに沿って歩き始めた。一つめのドア、二つめのドア、三つめ、四つめ・・・と数々のドアを見過ごしていった。
音楽家は言っていた。
まずは、自分の心に湧く想いとか直感を頼りに行動することだと・・・、
何を選択するかは自分の自由だと・・・、
そして、自分が生まれる前から知っていることを経験していくのだと。
でも、ぼくは一体何を知っていたんだろう。いま何を知っているんだろう。・・・幾つもある扉の向こうには、何があるんだろう。
オーディルに再び好奇心が宿ってきたが一向に直感が浮かんでこない。心に湧く想いも…。
彼は直感が訪れるまで歩き続けることに決めた。どの扉を開ければいいのか浮かんでくるまでこのまま歩いてみようと思った。
そのとき、ふと、一枚の扉に眼が止まった。どの扉もみんな同じ色で同じ形をしているが、何故かその扉に興味を示していた。
彼はその扉に手をかけた。中は真っ暗でまるで見通しが聞かない。それでも彼は中に入った。無意識ではなく、初めて意識した直感に従って・・・。
オーディルは、ここに拡がる世界が自分に何をもたらしてくれるのか、期待に胸をときめかせていた。しかし同時に、暗闇に対する不安も拭えなかった。
扉が閉まる。入ってきたシルバー金属の扉が・・・。
すると突然、隙のない暗闇がひとつの世界に取って代った。鉛色の扉も消え失せ、彼の周囲、360度すべてが新世界に包まれた。リノリウムの床が細長くつづく廊下と両側の壁。その壁の所々に磨りガラスが埋め込まれ、幾つかのドアも据えてある。
ここは何処だろう。建物の中にいるようだけど・・・。そのとき誰かの声が聞こえた。
「今、何時かね。」そう聞こえた。
後ろからやってきた男はでっぷりと太った恰幅のいい体で、スリーピースのスーツから覗いている金の鎖が金満家を思わせる。
「あいにく、時計を持ち合わせておりませんので。」一歩下がって付いてくる男の声。彼は細身で分厚いメガネ越しにバツの悪そうな眼を覗かせている。腰の低い姿勢から悲壮感が窺える。
どうしてこの人はこんなにペコペコしているのかな。
オーディルはそう思っていると、金満家が彼に視線を向けて同じことを聞いた。
「おい、お前。いま何時だ!」
オーディルは彼の偉そうな態度と口調に圧倒された。言葉が出てこない。
・・・・・・・・。
彼はオーディルを睨みつけると、「どいつもこいつも役に立たん奴だ!」と吐き棄てて去っていった。彼の横柄な態度に、オーディルはまだ圧迫感を感じていた。そして、素直に自分を表現するのは難しい、と思った。
どうすれば自然に自分を出せるんだろう。何か、人の威圧感に負けない術があるんだろうか。ぼくは思考をめぐらせたがそんな方法はひとつも浮びはしなかった。そして、後ろに付いていた細身の男の気持ちが何とな判ったような気がした。細身の男とぼくは同類の人間なのかもしれない。
オーディールはそんなことを考えながらリノリウムの床に立ち尽くしていると、どこからともなく聞き覚えのある音が聞えてくる。
ドクッドクッ、ドクッドクッ。
彼はハッとして天井を見回した。
あの音だ。スクールで聞いた、あの忌々しい音が耳を突いてぼくの中に入ってくる。
彼は耳障りな音源を探そうと天井に眼を走らせながら、ゆっくりと廊下を歩いた。すると、いきなり・・・
次回に続く