いつの間にか音楽が途絶えて完全な静寂が訪れるが、オーディルとパブリロは心に流れつづける音楽の余韻に耳を傾けていた。
「君たち!」
誰かが声をかける。けれども、二人は淡い夢から覚める気配はない。もう一度誰かが、今度は声高らかに呼掛けた。
二度目でやっと我に返ったオーディルは、声の主を探した。すると、先程までギター片手に詩をつづっていた歌うたいが手招きしていた。オーディルは肘でパブリロを突き、音楽家のテラスへ近寄った。
「君たち、どうかね。こちらへ来てコーヒーでも飲まんか?」
歌声からは似ても似つかないほど、か細い声が言った。
二人はためらいもなくテラスに上がりダークブラウンの椅子に腰を下ろした。年配のギタリスト兼ボーカリストは、カップに焦茶色の液体を注ぎながら、「あまり見かけんようだが、何処から来たのかね。」と尋いた。
オーディルはどこから話せばいいのか判断しかねて口を閉ざしていたが、弾き語り奏者は気を悪くしたような顔色も見せず濃厚なコーヒーを差しだした。傍らには、さっきまで美しい声を発していたクラシックギターがひっそりと佇んでいる。
大空は一瞬の隙もないほどの暗闇に包まれ、完璧な夜が支配している。そのなかに細く光る三日月。ぼんやりとしたテラスの電灯。そして、時おり吹きぬけるそよ風。落ち着くには申し分ない環境である。
しばしの沈黙を破ってオーディルが口を開いた。
「あなたの声もギターの音色も、とても・・・、とっても綺麗で身体に染み渡りました。」
声を出さずに笑みを浮かべコーヒーを啜る年配。彼の微笑みがオーディルを先に促す。
「特にあなたの詩には心を動かされました。聴いていると情景が浮かんできて、それが現実とは随分かけ離れているんですけど、どこか本質を突いていて、・・・飾りっけのないケーキのなかに甘さと辛さが共存しているような、そんな感じがしました。・・・うまく言えませんけど、・・嘘がないんです。」
オーディルの言葉を受けてパブリロが続いた。
「そうなんだ。現実感のない現実っていうか、ピエロの素顔を見ているような気分で・・・真実を歌っていると思った。」
「そうかい。褒めてもらえるとうれしいよ。私たちは気が合いそうだね。」ぼんやりとした眼の彼は、うまそうに紫煙を吸い込むと再びコーヒーを啜る。
「ぼくたちは、」一瞬、間をおいて再びオーディルが口を開いた。「ついさっき、この街にやってきたんですけど、ここは何となく落ち着くんです。ぼくたちが前に居た国とどこか似ていて、・・・雰囲気っていうか、流れてる空気が同じで。・・・でも、ぼくらが行ったこの国のほかの街はまったく違うんです。
勉強して資格をとるとか、レベルの高いクラスに行くとか、豪華な物に囲まれて暮らすとか、そういうことに熱中している人がいるかと思えば、別の街には人を騙してお金を盗るとか、汚らしい場所にたむろするとか、そんな人たちもいて、一体どっちが本当なのか分からなくなるんですけど・・・、
みんなに共通していることは、どの人も、笑顔なんて忘れてるんじゃないかって思うくらい、すさんだ顔をしていて、・・・。
でも、ぼくは・・・勉強とかお金にどれ程の価値があるのか、って思うんです。それよりも、青空とか夕焼けとか緑の方がよっぽど価値があって、笑顔を絶やさない暮らしの方が大切だって思うんです。」
「おいらもそう思うよ。勉強が嫌でおいら逃げ出したけどさ、<OSCUROS>って街に行ってよく分かった。この世界には強者と弱者がいて強いものが勝つんだ。誰もが競争していて、それがごく当たり前なんだよ。それで、知らないうちに人々は汚染されて互いに傷つけ合ってるんだ。
・・・おいらの考えが正しいのか間違ってるのかよく分からないけど、とにかく捨てる者と捨てられる者が居るんだよ。」
音から離れたミュージシャンは二人の語らいを穏和な面持ちで眺めていた。もう少し教えてくれないか、とでも言いたげな表情で・・・。
「でも、ぼくは、」オーディルは言った。「この国にうまく順応できない自分が嫌だったんだ。みんな出来てるのに自分だけが出来なくて、何か取り残されてる気がして不安だった。皆から外れている自分はだめな人間なんだ、って思った。それでも、逃げることが出来なかった。みんなから軽蔑されるのが恐かったんだ。」
「おいらもそうさ。優しそうな女の人に、・・ビーデルって言ったかな。その人に付いていって、挙句の果てに変な薬を射たれてさ・・おいら、あの時独りぼっちで寂しかったからその人の目を気にしてたんだと思う。嫌われたくないって気持ちがどこかにあったんだよ。」
二人は互いに落胆していた。話すうちに、自分の存在があやふやになって消えてしまいそうだった。口を開けば開くほどヌワンジェの言っていた常識からどんどん遠ざかっていくのがオーディルにはわかった。彼は、世捨て人のような雰囲気を漂わせた眠れる音楽家に、何げに聞いた。
「ぼくたちはやっぱり、だめな人間なのかな。勉強とか贅沢とかに価値はないって分かるんだけど、それが正しいことなのかはっきりしなくて、自分の考えに自信が持てないんです。・・・何か不安で、胸をはって行動に移せないっていうか・・・。」
「・・・それは、ひとり一人、みんな違うってことだ。勉強や贅沢に執着する者も、そこから逸脱して別の何かを求める者も、それはそれで、みんな正しいのさ。・・・たとえば、料理を例にしてみると、ここに一軒のレストランがあって食欲をそそる数々のメニューが揃ってる。このメニューを一つずつ順番に嗜めていく。
好き嫌いはあるけど、とにかくひとつ一つ食べてみる。・・・やがて、すべての料理を食べ尽くして、次からは好きなものだけを食べるようになる。そうしているうちに、舌が慣れてきて満足しなくなるんだ。
そしたら別のレストランに行って、同じことを繰り返す。
・・・遂には、この世の料理という料理を食べ尽くしてしまう。すると、また新たな好奇心と欲望が顔を出して、今度は自分で作ってみようとする。でも、レストランにある料理をそのまま再現したのでは面白くないので、自分の好きなエッセンスをふんだんに加えていく。そうすると、今までにないものが出来上がる。
・・・こうやって、好きなもの嫌いなものを確かめたあとで、元あるものを自分でアレンジしていくのが、生きるってことなんだ。・・・でも、みんなが皆、そうするかって言うとそうでもない。」
音楽家は、傍にあるポットからもう一杯コーヒーを注ぎながら、
「一軒目のレストランにずっと留まってている者もいる。彼らはひとつのことを一生かけてやるのが正しい、と思っている。もう、そこには自分の欲求を満たす料理がないかも知れないのにね。
・・・逆に、別のレストランへ旅する者もいる。彼らは飽くなき欲望を抱えて次から次へと食い潰す。ここに、一軒のレストランにとどまる人との価値観の差が出てくるんだ。」
「価値観?」オーディルは呟いた。
「そう、価値観。・・・人は誰だって価値観と共存している。意識しているかどうかは別にしてね。・・・一軒のレストランにとどまる人は、それが彼らの持っている価値観なのさ。それ故、ほかの場所を知らない。
だから、心のおもむくままに行動する人の価値観を理解できないで非難を浴びせる訳さ。
・・・君はさっき、笑顔の絶やさない暮らしって言ってたよね。それが君の価値観なんだよ。贅沢な生活をしている人にも価値基準はあるし、ほかの人たちにも価値観はある。しかし、誰が正しいということはない。みんな正しいとも言えるし間違っているとも言える。それに気付けば、非難されたとしても苦にならんのだ。
・・・そもそも、他人の価値観に口を挟むのが間違っておる。・・・と言っても、人が助けを求めていて援助する場合は別だし、自分の心に壁をつくって頑なに心を閉ざしてもいかんけどな・・・。まあ、・・他人を非難する人たちの心理も解らないでもないけど・・・。」
「どういう心理なんです。彼らはどう思ってるんですか?」
次回へ続く