別題『三都三人絵師(さんとさんにんえし)』です。こんな噺になります。

 

三人絵師

 三人の江戸っ子が京見物のため京都の宿屋に泊まる。
 翌朝、寝坊した一人を残して二人はさっさと市内見物に出かけてしまう。
 部屋の残された江戸っ子、隣の部屋から大阪者と京都者が、上方と江戸を比べて、鴨川の水は日本一、それに比べて江戸の水道はどぶ水だと、さんざんに江戸をこきおろしているのが聞こえてくる。
 腹を立てて隣の部屋へと飛び込むと、2人が絵師だというので、そこは江戸っ子の見栄っ張り、自分も絵師だと言ってしまう。
 そこで、三都(京・大阪・江戸)の絵師が1両ずつ出して絵を描いて、一番上手な者が3両を独り占めにしようという賭けをすることになる。
 京の絵師はきこりを描いたが、その絵を見た江戸っ子、
「樵の持つのはノコギリではなくガガリ
大鋸おがのこと、挽くときに発する音からか)ってんだ。それはいいとして、お前のはおが屑が描いてねえ」
 と、一両を奪う。
続いて大阪の絵師が、母親が子どもにご飯を食べさせている絵を描いたが、
「本当の親なら口をアーンと開けて食わせる。それなのに母親が気取って口を結んでいるのはどういう訳だ」
なるほど、これはもっともな意見だと二人は降参。
 さあ、いよいよ江戸の絵師の腕前拝見ということになると、調色板
(絵の具を混ぜるためのパレット)代わりに二人の顔を真っ黒けにすると、ついでに画箋も真っ黒けに塗りつぶした。
「何ですねん、これは?」
手前てめえたちのような間抜けにゃ分かるめえ。こいつはな、暗闇から牛を引きずり出したところだ」

 

 という、圓喬が好んで掛けた江戸者が上方者を凹ます噺で、『祇園会(別題:京見物)』にも似ております。
 圓喬の速記は残っておりません。稲荷町の正蔵(八代、岡本義)が「噺家の手帖」(一声社 1982年)に、圓喬の『三人絵師』が大阪弁、京言葉、江戸弁を使い分けて巧かったと、書かれてあるのみです。稲荷町の著作から圓喬の『三人絵師』に関係する部分を引用します。

 

 なにしろ二十三歳のとき(当時、円好を名乗っていた)、上方から帰ってくると、上方弁と、京都弁を自由に使い分けて、だれも真似ができなかったってんですよ。
 いまは純粋な上方弁というものがなくなっちゃったけど、やはり大阪は大阪弁で、京都は京都弁で……、だから、「茶金」
(蛇足注:別題『はてなの茶碗』)だの「およく」(蛇足注:別題『祇園会』)「金明竹」などはよかったわけですよ。
 ……「三人絵師」という、むずかしい噺があるんですが、それは、京都の画かきと大阪の画かきがお互いに絵の褒めっこをして、
「ええお堂の絵でんなあー」
「えー、たいしたもんでおまンなぁー」
 っていうと、江戸っ子が、
「べらぼうめ! なにをいいやがんでえ! 江戸っ子はそんな絵は描かねえ!」
「じゃ、描いてごらんなはれ」
 っていうと、紙を真っ黒に塗っちゃって、
「こりゃ、いったい、なんどすな!」
 っていうと、
「こりゃ、暗闇から牛をっぱり出したんだ!」
 ってのが、サゲなんですけど。
 それまでだれも演り手のない噺で、みんなビックリしたんだそうだ。


林家正蔵随談 麻生芳伸編 青蛙房 1967年 圓喬の手法? より原文ママ

 

 稲荷町は他の著作でも圓喬についてかなりのページを割いているのですが、「あたしはね、円喬師匠の噺を実際に聴いたことがないんでね。」と述べております。ただ、大変に興味深い内容なので次回以降『鰍沢』の演出など絡めまして、数回に分けて一気に片付ける予定です。