鮓の石五更の鐘のひびきかな 蕪村
何事も物事の始まりははっきりしません。
炊いたご飯に酢を合わせる今の鮨飯の方法も
ご多分にもれずいくつかの説があります。
浪華江(岡本保孝 明治12年没)巻ノ上に、
『今江戸にある鮓は、延宝(1673年~)の頃、
御医師の松本善甫と云ふものの新製なり。
されば世に松本鮓と云ふ』
今日の酢を飯に混ぜる方法は
それ以前にもありました。
慶安二年(1648年)に名古屋清州の
笹田伝左衛門が米酢を始めて精製して、
馴鮓から酢をくわえて味付けした鮨が考案され
一夜ずし、生成といわれて呼ばれていました。
それまでの鮨は馴鮓で、同じ浪華江に、
『彦根の鮓・尾州の鮎の鮓などは、
魚と飯をまぜて五六日もえ経て食ふなり…
これ等の鮓は、右より左に出来兼る故に、
商ふ者にあつらふに、
今日より幾日経て取りに来給へと云ふなり。
これをオチャレズシと云ふ。
松本鮓は直に出来る故に、マチャレズシと云ひ、
また早鮓とも云ふなり』
江戸では延宝(1751年~1764年)の頃に
出来た鮓屋はまだ古鮨の店です。
魚と飯を四、五日漬けて食べます。
『鮨になる間とくばる枕かな』 (一茶)
友人を招き鮨が出来るまで
少し昼寝でもとさすが俳人です。
『しろうとの鮨七輪を取っちゃ見る』(江戸古川柳)
江戸っ子は桶を七輪にのせて
早くなれさせようとします。
これでは美味しい鮨はできません。
早鮨はその後で、宝暦(1751年~1764年)の頃、
和州の下市の鮨屋弥左衛門の倅が、
伝馬町に出店しつるべずしを売り出してから
一気に早鮨に人気が出たといいます。
やがてその手軽さが受けて握り鮨が誕生しますが、
守貞漫稿(喜多川守貞 嘉永6年 1853年)に、
『握り飯の上に、鶏卵やき、あわび、まぐろずし、
海老のそぼろ、小鯛、こはだ、白魚、蛸などを専とす。
皆各一種を握り飯上に置く』 とあり、
鮨種は今とほとんど変わらず豊富ですが、
握ってからその上に種をのせる方法で、
今日の種を下に鮮やかな手さばきで
握る方法はまだ見られなかったようです。