義士祭香煙帰り来て匂ふ 石田波郷
江戸前期から中期にかけて
江戸へ入って下り物として知られているのは酒・醤油です。
「価値がない。取りに足らない事」を下らぬなどといいますが
語源にひとつともいわれています。
塩はその多くは下り物です。
下り物といっても塩は京阪でなく、
産地より直接塩回船で運ばれてくる特殊な取引です。
その大部分は十州塩と呼ばれる瀬戸内海の塩で、
享保十一年(1726年)には百六十万俵といい膨大な量です。
関東の濃口醤油の台頭で
供給量はますます増大します。
文政四年(1821年)には
江戸の醤油の消費量は百二十五万樽。
そのうち下り物は2万樽と大幅に減り
関東の濃口醤油の全盛期をむかえますので
相当の塩が使用されたと思われます。
瀬戸内諸国が大量に塩を生産できたのは
地の利を生かして新しい技法
入浜形式を取り上げたからです。
一説には赤穂浪士の悲劇は
老舗の播州赤穂の塩(塩田75町歩・5石相当あったといわれます)
と新しく取り組む新興勢力の軋轢からともいわれます。
その筆頭が三州饗庭の塩(塩田98町歩)で、
吉良上野介に新しい製法を
伝えなかったからとの説もあります。
江戸物価事典(小野武雄編 展望社)の
越後屋呉服店「小遣目録」に、
塩の単価が宝永七年(1710年)から
慶応一年(1865年)まで詳細に記録されています。
記載の始め、宝永七年江戸春 一石につき銀三八.三匁。
文久三年(1863年)頃までは高値でも五十匁前後ですが、
慶応三年(1868年)江戸春には、
百二十七匁迄跳ね上がります。
享保一年(1716年)京都の春は単価は十四匁。
江戸春は五十八匁もします。
この年は供給のバランスが崩れたのでしょうか。
享保十二年春(1727年)から
文政一年(1818年)迄は
一俵の単価が記載されていますので
取引方法も変わった時期もあったようです。
銀一、九匁から多くは六匁で
取引されています。