てのひらのぶ厚く老いて走り蕎麦  蛯名晶子


江戸っ子が愛する食べ物屋のひとつに、

蕎麦の担い売りや屋台店があります。


貞享三年(1686年)寅年十一月には幕府より、

『一、饂飩蕎麦切其他何ニ不寄、

火を持ち歩き商売仕候儀一切無用ニ可仕候、

居ながらの煮売り焼売ハ不苦候』

と火の使用を規制する御触書も出ています。


江戸の家屋のほとんどが木造建築ですので

火事による大火を防ぐためです。


この時期明暦三年(1657年)

天和二年(1682年)に大火が発生して

街の大部分を焼失しています。


蕎麦切りの起源ははっきりしませんが

江戸の書物では料理物語(寛永20年 1643年)の

記載が早いようですので、

江戸の街に蕎麦切はかなりの速さで

広まった事になります。


『夜そば切立聞をして三声よび』(江戸古川柳)

どんな呼び声で売り歩いたのでしょうか。


江戸小咄・鹿の子餅(明和9年 1772年)には

『そばきり、そばきり』と二声記されています。


『おっと来たなとそば釜のふたを取り』(万句合 安永6年)

こちらは屋台店の感じで、

担い売りの人たちはそうはいかなかったようです。


『きれぎれに来て困らされ蕎麦の客』(柳多留148)

『貧乏なそばや見かけてたきつける』(万句合 安永8年)


客のいない時は火を落としており火の加減には

その都度苦労したようです。


『喰う内は蕎麦屋が傘をさしている』(万句合 安永7年)

商売の途中で雨に降られたのでしょうか。

雨の中の商いです。


蕎麦の担い売りは、

蕎麦を持ち、水を持ち

その上に燃料も用意して売り歩くのですから、

担い売りの中でも大変な仕事です。