入国初日は、「(無知×無能の)重度複雑粉砕骨折」で激しく消耗した。

気づいたのは、語学力不足というのは、「どう質問・説明していいのか分からない」と結びついていることだ。
リスニングやスピーキングと密接に関係するものの、イコールという訳ではない。
恐らく、人の言語理解の根本と関わる部分だろう。

自分は日本語表現なら、(「説明」の場合は事前の仕込みや練習ありきだが)「質問」する方は割と苦にならず(=自然に)表現できる。
知らないこと自体は存在しても、「何がわからないのか分からない」的な状況はまず起きない。

一方、英語となると、分からないことや焦りがいっときに渋滞し、「何からどう伝えたらいいのか?」が混乱して言葉が出てこない、という事態が頻発する。
「質問」する時というのも、その意図や目的を含め「説明」しないと、相手に趣旨がきちんと伝わらない事態が生じる。

「困っている」のは確かなのだが、「何にどう困っているのか?」「どう解決したいのか?」を自分で特定できなくなっている訳だ。
これは、単に語彙や構文理解・活用だけの能力で収まる問題ではない。

「(無知×無能の)重度複雑粉砕骨折」が起きるのは、一つのことが解決できず、解決策を求めようとして、逆に傷口がどんどん拡張し、ドツボ(蟻地獄)にハマってしまうことから生ずる。

「分からないこと」だらけの中では、人にヘルプの出しようがない、という部分もまた生じ得るのだ。
そこが、「バカ=聞けない・ヘルプ出せない」の生じる根源となる。

ここまで来て、「英会話」学習やそのコンテンツというのは、「ある水準までは理解・伝達可能」なこと(=単純な問題-解決の組み合わせ)を前提にしている、という非常に重大な事実に気づくのだ。

どういうことか?

「あるシチュエーション(買い物でも受付応対でも何でも良い)」を想定した時、「話し手-受け手」は、
・ともに正確な語彙・構文理解・活用が出来る
・質問者は、自分の質問=課題を正確に言語化できる。
 受け手は、その解決策を持ち、表現できる
・また、その課題は、(ダイアログ内で)解決され得る単純さ
などが前提にされているのだ。

だが、実際のシーンの英会話では、こうした「知識・情報やその課題感と解決策」「それを表現する語彙や構文力」は常にいずれも大なり小なり欠けていることが普通ではないのか。
現実に持ち得る課題感は、もっと複雑な、重層性を持つ場合が少なくない。
単に「語学力不足」だけを問題にするだけではダメで、「課題状況やその解決策そのものの複雑さ」を問題にしない限り、「語学の本質」が抜け落ちはしないか、ということを言いたいのだ。

ただ、こうした前提が見えてくると、逆に「自分に欠けている部分」は特定しやすくなり、対策=補強の手立ては見つけやすくなっていくのだ。