はい、今回は神社ではなく川越市立博物館です。
ここは以前レポートした川越氷川神社のすぐそばにあります。
川越氷川神社に来た時に行けばよかったのですが、改装中で入場できなかったのです。改装が終わったとのことで出かけてみました。
■川越市立博物館・・・埼玉県川越市郭町2丁目30−1
では川越の位置を確認しましょう。
関東の3大河川の一つ、荒川
その中流流域に川越は位置しています。
上図でお分かりかと思いますが、川越の近傍で支流が多数合流しているのが分かると思います。
陸路の発達していない古代においては河川は重要唯一の交通路となります。川越は古代河川交通のスクランブル交差点であったことが容易に想像できます。
つまり、ここ川越を制する者が荒川という関東平野のど真ん中を通る最大のハイウェイを牛耳ることになります。
川越はその喉元に突き出した、荒川流域最大の超重要地点であったと考えます。
それは後世においても事情はそんなには変わらず、幕末頃には群馬方面で生産された生糸をここ川越に一旦集積してから海外輸出用に下流へと輸送したことが分かっています。現在観光地として有名な川越市街地にある豪商の建物はその当時の名残です。
まぁ今となっては観光資源となっていますが、一度実地にご覧になってもいいかと思います。
逆に言えば、そんな立地であるからこそ古代においても熾烈な陣取り合戦が行われたことは想像に難くありません。
川越氷川神社のレポートを読んでいただくとよく分かりますが、境内社がすごく多かったです。ここ川越のランドマークたる川越氷川神社に多くの祭神が残されているということは、数多くの民族グループが川越の利権に食い込もうと必死になっていた証拠ではないでしょうか。(詳しくは川越氷川神社をご覧ください)
上図は現代において市街化があまり進んでいないエリア、つまり水はけが悪いとか洪水の危険があるため市街化が進んでないエリアをブルーで大雑把に塗ってみたものです。
乱暴に言えばこのエリアがかつての水域、古荒川湾だったと推定できるでしょう。
これを見れば、川越を支配すれば荒川を上下する舟運に対し課税・略奪できる絶好ポイントだとわかるはずです。
川越氷川神社はその時代その時代の荒川河川交通を支配する者が絶対に抑えておくべき要衝だったのです。
では川越市立博物館の展示物を眺め、弥生~古墳期を中心に所感を書いていきますね。
これは江戸期頃(多分…)の川越の模型です。
上が北方向で、一番北に飛び出しているようになっているのがかつての川越城、現在の川越氷川神社あたりです。
私が対象としている弥生期には、青く塗りつぶしたエリアは水辺になっていたことでしょう。
これは明治期の河岸(舟運拠点)の模型です。
弥生期にもこれと似たような状況があったのだと想像しています。
川越に物資を集積し一時的に倉庫に保管し、また各方面へと積み出すといった舟運を、弥生期において氷川族が独占していたと想像しています。
その根拠は柳瀬川流域の神社で見てきたように、河川に沿って転々と氷川神社が並んでいたからです。
特に柳瀬川の流れる武蔵野台地は江戸期まで全く開発されていませんでしたので、古代の痕跡が残っていたのだと思います。
ところが逆に入間川の北側は古代から動きが活発で、荒川舟運利権と入間台地への入植を巡って血で血を洗う争いがあったと思われます。
入植者のまだ少なかった奈良期まではいいとしても、中世になれば中世武士団が所領を巡って絶えず紛争しています。すでに過密の状態になっていたのだと思いました。
そんな状態になる前の弥生期を調査対象にしているわけですが、弥生期の痕跡を一つ見つけることができました。
これは(おそらく)明治期の舟運業者の分布を展示した図です。それに私が河川を分かりやすく書き込んだものです。
1)入間川をご覧ください。舟運業者がほとんどありません。荷の取り扱いがほとんどなかったのでしょう。
2)それに引き換え霞川流域は非常に多いです。この地区の絹生産(米も)によるものでしょう。
そして何より
3)不老川流域に多数の業者拠点が集中し、それが狭山神社付近にまで伸びています。これも絹生産によるものだと思います。
明治期に不老川が舟運可能であったかどうかに関わらず、江戸期のずっと以前から不老川流域で大規模絹生産があったから運送業者も集まっていた以外に考えられません。
そしてその最上流に位置する狭山神社に機(ハタ)神社としてタク「ハタ」チヂ姫がひっそり祀られていたことが、不老川がかつての絹生産・絹運輸の超重要ルートであったことを示していると思います。
では弥生期の状況を見てみましょう。これは弥生土器3種の分布図です。
赤●は南関東系土器
黄●は比企系土器
青●は北関東系土器
半透明青は古荒川湾と思しきエリアです。
同様の分布図が埼玉県立歴史と民族の博物館にもありましたが、若干内容が異なります。
相違点は比企系土器が北方からやってきた、としている点です。
それを信じるならば、入間川の北側は群馬方面から南下してきたグループによって占められていたことになります。※1
太平洋側から侵入した勢力と群馬・秩父から南下した勢力、この2つが入間川を境にしてにらみ合っていたのかもしれません。
面白いのが入間川北岸にある霞が関遺跡です。
ここからは上記3種とも土器が見つかり、しかも弥生期から中世まで連続した集落です。この時期においては川越よりも霞が関遺跡の方が重要拠点だったということでしょう。
たしかに入間川上流域への玄関口にあたり、同時に中山道武蔵道も通っていますので水運・陸路の超重要拠点だったことからも納得です。
入間川支流・霞川の北岸は加治丘陵で、その名の通り鍛冶職を生業とするコロニーが点在していましたが、そのコロニーのルーツは秩父にありました。つまり古代から入間川は南下して移り住んできた者たちがこれ以上南下できないボーダーのようなものだったのでしょう。
さて墓制を見てみましょう。
弥生期~古墳期に川越周辺では方形周溝墓が多数つくられたようです。
方形周溝墓は弥生期に中国から九州・近畿・東海を経て一気に入ってきたもので、中国人移民(遼東公孫氏の滅亡によると考えています)が短期間で関東に大量に入り込み、そのこと自体が新世紀たる弥生期を強制的に作り出していた、と想像します。
方形周溝墓がそのまま大型化したものがいわゆる古墳だと私は考えていますが、その後の古墳期の終わりには横穴墓(おうけつぼ)が崖地形に大量に作られます。
Wikipediaによれば、
横穴墓は古墳時代5世紀後半の九州北部の豊前地域に淵源を持つ、と。
おもに6世紀中葉に山陰・山陽・近畿・東海地方まで盛行した。
7世紀初頭までには北陸・関東・東北南部まで分布した。
薄葬令前後から爆発的に増加した、という説明になっています。※2
流行の始まりが九州だということ、葬制は民族伝統に深くかかわっているということ、以上の2点から大陸からの大量の難民が持ち込んだ葬制だと想像します。
方形周溝墓と同じようなケースだと思います。
そこで5世紀後半に半島・大陸で何があったかをWikipediaで大雑把に調べますと…
・三国史記(半島の歴史書)によれば倭人が盛んに半島を襲撃していた。
・いわゆる倭の五王(当然にも九州王朝)が中国南朝に対し、韓半島支配を認めるよう働きかけていた。
・475年、高句麗が百済の都・漢城(ソウル)を制圧し百済の蓋鹵王が戦死。後継の文周王が南方の熊津に遷都(逃げた)する。
原因としては3つめが怪しいですねぇ。
百済難民が横穴墓スタイルを持ち込んだんじゃないのかな? と想像しましたので検索しますとこのような記事がヒットしました。
(記事のタイトルが「韓国で日本式横穴墓群」とあるのが言いえてなくて妙、と申しますか…笑)
「韓国の忠清南道公州で日本特有の様式とされる5世紀(百済期)ごろの15基の横穴墓群を発見した」というニュースです。
記事によれば…
「横穴墓は5世紀末~8世紀に九州で多く見られるが、朝鮮半島でこれほどの数が一度に発見されたのは初めて。
横穴墓は丘陵地帯にあり、それぞれ約30センチ-約2メートルの羨道(せんどう)を持ち、遺体を埋葬した奥行き約1-2メートルの玄室の入り口には石で段差を設けた例が多く見られた。土器や杯、鉄製のおのなどの副葬品なども発見された。
韓国では横穴墓は2000年に公州市で3基が発見されるなど複数の発掘例がある。」
475年に高句麗が百済の都・漢城を陥とし、百済は南方の熊津に逃げたという場所が公州です。公州に逃げた後に作った墓が上記記事の横穴墓なのでしょう。
百済は首都を落とされて難民が身を寄せたのが公州、対馬海峡を渡って列島へ逃げ込んだ百済人王族・官僚が列島各地に横穴墓を作ったのだろう、と想像しました。
ですので上記記事のタイトルは「韓国で韓国(百済)式横穴墓群」とするのが正しいですね。
いずれにしましても関東へ縄文期を終わらせるほどのショックを与えた中国人大量移民=弥生時代の幕開け(方形周溝墓)、と同様な程の第2のショック(横穴墓)が関東を襲った。それを横穴墓の隆盛が表しているように思います。
以前の記事(埼玉県立歴史と民俗の博物館)で、関東へ大きな文化の流入が2回(4世紀、5世紀末~6世紀初)あったとする展示資料を紹介しました。↓
この「5世紀末~6世紀初」にあったとされる文化の流入は、475年に滅んだソウル(漢城)を捨てて南方のコムナリ(熊津)に逃げた百済王族とは別に日本列島へと逃げた百済勢力そのものだったと想像しました。
そして彼らが日本列島各地で作ったのが(彼らの伝統的葬制である)横穴墓なのでしょう。
しかも上図をよく見てください。
近畿に一旦落ち着いた百済人たちはそこからさらに東山道・東海道を経て関東へ入っています。
よほど高句麗が怖かったのか、それとも近畿奈良政権にうまく取り入って関東開発の名目を得たのか…後者なのかな?
彼らの埼玉における痕跡(神社の祭神)がいまいちよく分からないですが。
後の7~8世紀になって、既に関東各地にバラバラに入植していた百済・高句麗民を荒川西側に集めて高麗郡を建郡するという出来事がありました(その中心的存在たる高麗神社を当ブログでも紹介しました)。
おそらくは荒川中流域を百済・高句麗勢力を利用して支配するための近畿奈良政権による施策だったと想像しています。
なぜに百済・高句麗民は関東開発を行ったのか?
おそらくは西日本・中部・日本海側は既に弥生期に開発されていて、朝鮮半島からの新参者(百済遺民、高句麗遺民)が入り込めるスペースが無く関東に彼らの王国を築くべく東山道・東海道を経てやってきたのだと想像しました。
しかも彼らは貪欲にも東北地方にまで進出していたらしいと、上図は語っています。
想像に想像を重ねるようで申し訳ないのですが…
ここまで分かってしまうと関東とは中国人・朝鮮人の国といっても間違いではないと思います。※3
関東が坂東武者の国と言われるのも、大陸や半島からの移民が凶暴な戦闘民族であったということでしかないのかな、とも思えます。
関東で馬の飼育が盛んだったのも、それを持ち込んだのが大陸由来の移民だったと考えれば当然と言えば当然となります。
以前から漠然と感じていたのですが、関東でも都心部で歩いている人々は案外小柄で、なんとなく海人族を連想します。
に対して荒川の東側、埼玉北部の人々はなんとなく大柄で、海人族というより大陸的と感じます。
次は山王塚古墳です。
これは以前ご紹介した熊野神社古墳(武蔵大國魂神社の近く)と似ている上円下方墳で、それだけで近畿大和朝廷の関係者の古墳なんだろうなぁ、と想像してしまいます。
副葬品も剣、矢じり、ガラス玉、管玉、馬具、鏡と、全く典型的ヤマト関係者といった内容です。
つまり武蔵大國魂神社勢力の力がここ川越のすぐそばまで及んでいたことになります。まぁ実質的に川越を支配していたっぽいですねぇ。
ここ川越では4世紀末に小古墳が作られ始め、6世紀には前方後円墳を中心に多数の古墳が作られ、山王塚古墳を最後に古墳は作られなくなりました。
山王塚古墳が最後の古墳であるとはいったいどういう意味なのか??
これは終末期古墳と関連施設の分布図です。
おそらくこの頃には、弥生期以降勢力の強かった元祖氷川は凋落していたのでしょうね。入間から下流側の荒川沿岸は寂しい感じです。川越で完全に舟運を抑えられてしまったためではないでしょうか。
入間川以北がにぎやかなのに対し、多摩川沿いに武蔵大國魂神社がポツンと孤立しています。
この状況では武蔵大國魂神社を東海道へと分離するはずですよ。
では分離されて残った入間川以北のエリアの支配はどうなったのかというと、どうも霞が関遺跡近辺に1つのセンターがあったようです。中世には秩父から出た河越氏がここを支配していたようです。
また別のセンターとして比企・横見あたりが考えられます。
その理由はこの地域に式内社が多数存在するからです。式内社というとご立派な建物というイメージですが、比企・横見にある式内社は村社と変わらない規模感です。
やっとのことで川越まで支配の手を伸ばすことができた武蔵大國魂神社勢力でしたが、川越を越えて北部まで支配が及んだかどうかは不明です。
ただ比企・横見の地域に式内社が多数存在することから、近畿大和朝廷の支配が平安期には北部埼玉にまで及んでいたらしいと思えます。それが武蔵大國魂神社勢力だったかと言われれば、ちょっと違う人たちが植民地管理人として入っていたように思えますが。
これについては追々現地取材レポートで解説しようと考えています。
※1後の時代になって新羅、高句麗系が高麗(こま)や新座(にいざ)に入植したとの情報があります。
そこはちょうど弥生土器の空白地帯で入り込みやすかったのでしょう。
※2これって半島、大陸から横穴墓を作る民族が大量に入ってきて、彼らが古墳を作り始めたらちょっとよくないと感じたから、「もぅこれ以上古墳は作っちゃダメよ!」と制限をかけたんじゃないのかな? と想像しました。
単なる想像ですが…
※3大変失礼に当たるのですが、「箱根の向こうには猿しかいない」などと関西でいわれるのはこういった民族の違いからくることなのかもしれません。