前回までは筑後川の北側でしたが、今回は南側にやってきました。

 

■賀茂神社・・・福岡県うきは市浮羽町山北1

 

 

 

地割を見ると古い時代から開発されてきた土地だとわかります。

 

 

祭神は、神日本磐余(神武)、賀茂別雷、賀茂建角身、玉依姫。

相殿は、懐良親王、天神地祇、赤松大神。

古来、賀茂大神の地だと旧記に書かれ、賀茂大神がヤタガラスと化し神武東征の先導を果たした、と。

 

実はここ賀茂神社は久留米地名研究会・古川清久氏による完全解析がなされておりまして、それを読んでみますとなかなかに奥深い分析がなされていますので以下青字で随時紹介していきます。

 

 

 

 

うきは市から日田市にかけては物部氏、大幡主(賀茂族)、ウガヤフキアエズの匂いがするエリアです。ついでに言えば、日田市に玉川地区があるのも関係なしとしないのです。

この大幡主、その子豊玉彦(ヤタガラス)のエリアには「隈」地名があることは何回か書いていますが、ここも同様で、東隈、西隈があり、隈上川が流れ、上流には笹の隈があり、隈地名が直ぐに拾えます。

「隈」地名は、熊本から大幡主の一族が地名を持って筑後川流域、博多周辺に展開した痕跡なのです。

 

まず、この神社は“美しい”の一言に尽きます。

殷の鳥居の変形(要するに殷の鳥居に瓦屋根を載せた)ではないかとも思える荘厳な門と立派な参拝殿、水路を巡らした庭園風の庭、神社の性格とか祭神云々の話に入る前に、その荘厳、神秘性に圧倒されてしまいます。

 

境内へ入りますと

 

 

美しい流れの川を渡って

 

拝殿

 

羅針盤状の暦盤が天井に置かれているのも印象的です。

この一族が、星(天文)を観測し航海を行い、暦を創り司る人々であった事が分かります。

博多の櫛田神社(大幡主の本拠地=熊野の出戻り本山)にも暦盤が置かれていますね。

天井の丸いものは羅針盤だったのか! 周りには十二支(?)真ん中には針がありますね。なるほど~

 

このうきは市一帯には、千束、千足(チツカ、センゾク…)、姫治(ヒメハル:紀氏が治めるの意味かも)、内ケ原(ウチノシコオ?)、白土(もちろん白川伯王=の系統の方々が住む土地の意味ですね)という物部氏、白族系統の地名が拾えます。

さらに言えば、日田市にも隈地名(星隈など3隈地名が…)があり、豊玉彦を意味する玉川地名まで存在しており、この古代筑後湾の湾奥好地が、大幡主と豊玉彦の支配下にあった事が分かるのです。

 

百嶋由一郎先生が講演中にうきは市の隣、久留米市に田主丸町に「豊城というところがありますが、贈)崇神天皇の子である豊城入彦が宇佐から入って来ています…」と言われていました。

ここで重要になるのがこの賀茂神社の神紋の二つ葵です。そして贈)崇神天皇もこの神紋を使っているのです。

拝殿の中央の鈴の上にある神紋ですね。

 

この筑後川左岸の田主丸、旧うきは町に掛けては、元々大幡主とその子ヤタガラスの領域だったようですが、(開化天皇=高良玉垂命と神功皇后)の時代に贈)崇神天皇の子である豊城入彦が後に宇佐から入って来ているようなのです。

豊城入彦については以前里見神社でご紹介しましたね。ここより西10kmに田主丸町豊城(豊城入彦のコロニー)があります。

 

ここ賀茂神社の行直大宮司が慶安4年(1651年) に以下のように記しています。

「賀茂大神は最初にこの地に天降り鎮座され、神武天皇が日向から大和へ御東遷のみぎり、宇佐から山北へ来られ賀茂大神は八咫烏(やたが らす)となって御東幸を助け奉られたので、今も神武天皇と賀茂大神を奉祀する」

 

この話は、本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と、随行した本物の豊玉彦(ヤタガラス)の話が基礎にあり(両者が同社に同時に居た可能性も含めて)、それが神武僭称贈)崇神とその子豊城入彦の話と重なり、本来の祭神の本物の神武天皇(カムヤマトイワレヒコ)と本物の豊玉彦=賀茂建角身命に神武僭称崇神とその母親である鴨玉依姫=神直日が挿入され本物の神武であるように描こうとしているように見えるのです。

 

ちょっとわかりにくい書き方になっていますが、分かりやすく言うとこうです。

ここ賀茂神社の元々の祭神は(真の)神武、豊玉彦だった。時代が下って崇神が有力になった時代に、(真の)神武→(神武を僭称する)崇神へとすり替えられた。

このことから古代のある時期に、ここ田主丸、うきはの地は支配者が豊玉彦から豊城入彦へと代わったと分かります。

 

拝殿、本殿とも千木は外削ぎ。本殿には5本鰹木。

 

周囲の祠を見ていきます。

 

秋葉社と彫ってあるようですね。秋葉社=金山彦

 

 

読みづらいですが猿田彦大神とあります。猿田彦=香取大神=ニギハヤヒ

猿の字の偏が木偏になってます。なんで?

 

 

金毘羅宮=大国主。その上の家紋は杷木神社でも見た日足紋(菊池氏の家紋)。

久留米地名研究会・古川清久氏の話だと、この筑後平野の東の外れまで熊襲の勢力範囲になっていたということですが、日足紋がここにもあるように菊池氏=熊襲と考えていいのかな?

金山彦、猿田彦、大国主、古い列島開発世代がここでは摂社・末社として下ろされ、主役の座を譲っています。

 

これは五穀神社

 

このように多数ございます。全部丹念に調べるべきだった…残念!

 

 

三王宮。懐良親王、天神地祇、赤松大神(不明)を祀ったという相殿でしょう。

 

拝殿

 

その後ろに本殿があります。なぜか石造りです。

石地名についてはやはり久留米地名研究会・古川清久氏の解説が勉強になります。要約しますと(青字)

中央アジアにタシクルガン(石頭城)があります。この民族(トルコ系匈奴)が列島にも流れ込んでいて石地名、石造りを多数残しています。

大陸から列島への移住者について具体的にトレースされていますので、一読の価値ある研究内容となっています。

 

 

 

本殿の天辺に「上がり藤」らしき家紋。ちょっと真ん中あたりのデザインが上がり藤と違うような気がするんだけどなぁ…

ここ賀茂神社が藤原の祖・崇神、その子・豊城入彦を重視する神社であるとわかったので、ここにこの家紋があるのは自然です。

 

拝殿と本殿の間になぜか猿?が鏡(うちわ?)を持った石像が。これは一体…猿田彦か?

 

周辺には祠がありますが詳細は不明です。

 

さらには祠でもない何者かが…不明です。