夕食&夜明け
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夕食を済ませテレビを見たり明日の準備をして就寝。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

目覚めれば快晴の様である。
 
下田港は、静岡県下田市にある港湾である。港湾管理者は静岡県。避難港・地方港湾の指定を受けている。
 
江戸時代末期に、函館港とともに日本最初の開港となった。
下田港は、江戸時代から江戸に向かう船舶の寄港地として繁栄した。毎年、3000隻の千石船の入港があった。
 
江戸末期の嘉永7年3月3日(1854年3月31日)に締結された日米和親条約により下田港は函館港とともに同日開港され、外国船へ薪炭・食糧・水を供給する補給基地港となった。
 
しかし5年後の安政6年(1859年)の日米修好通商条約により神奈川港などが開港したことに伴い、下田港は安政6年12月12日(1860年1月4日)に開港が解かれた。
 
昭和8年(1933年)に東京湾汽船(現・東海汽船)の客船が就航すると下田港は観光港として栄え、翌昭和9年(1934年)には開港80周年を記念して第1回黒船祭が開催された。
 
第二次世界大戦中の昭和20年(1945年)には、海軍第16突撃隊・陸軍潜水輸送隊・海軍第6海龍隊が下田港へ配備された。戦後は再び観光港として歩んでいった。
 
 
↑ 伊豆下田の夜明け ↓
 
 
 
 
 
日米和親条約
嘉永7年3月3日(1854年3月31日に江戸幕府とアメリカ合衆国が締結した条約である。神奈川条約とも呼ぶ。
 
日本側全権は林復斎(大学頭)、アメリカ側全権は東インド艦隊司令長官のマシュー・ペリーである。この条約によって日本は下田と箱館(現在の函館)を開港し、鎖国体制は終焉を迎えた。
 
条約名のうち「日米」とは、日は日本、米はメリケン(米利堅)で、当時の日本における正式名は日本國米利堅合衆國和親條約(にほんこくめりけんがっしゅうこくわしんじょうやく)である。
 
幕末から明治にかけては、アメリカ合衆国は「メリケン」「米利堅」と呼ばれることが多かった。
英文における正式名称は「Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan(アメリカ合衆国と日本帝国間の平和および修好の条約)」であり、前述のように「Treaty of Kanagawa」と通称される。
 
 
↑ 陽光に手を翳す↓
 
 
 
 
↑ 何もすることのない妻は熟睡中 ↓