おはようございます。
今日は坂本竜馬の余り知られざる事を少し。
現在では坂本竜馬を知らない人間はいませんが、当時はほとんどの人が知らない無名な人でした。竜馬がにわかに世上で有名になったのは、死後30年経った日露開戦の頃です。
竜馬は1836年1月3日に高知県、土佐で生まれています。
現在では幕末に活躍して、薩摩、長州のいわゆる薩長連合を成し遂げ、大政奉還を成さしめる為の船中八朔を、後藤正二郎に献策したことで知られ、政治家で有り、実業家で有り、わが国で最初に会社の元になる亀山社中を創設しました。竜馬は慶応3年11月15日(1867年12月10日とも)に十津川郷士と名乗る数人の者に暗殺されたと言われていますが、未だ“なぞ”です。
明治37年2月4日、日露交渉に関する最後の御前会議が開かれ、同6日、日露の国交は断絶しました。当時はどう見ても、ロシアの陸海軍に勝てる筈がないと言うのが国内外の観測であり、憂色が一国を覆ってしまい、特に明治皇后(昭憲皇太后)が神経を病まれるまでになった。
その日露断交の2月6日、皇后はたまたま葉山別邸に避寒中であったが、その夜夢を見たそうです。夢に白装の武士が現れて「微臣は、維新前、国事の為に身を致したる南海の坂本竜馬と申す者に候」と言う。皇后はその名を知らなかった。その者はさらに言う「海軍の事は当時より熱心に心掛けたるところにござれば、このたび露国との事、身は亡き数に入り候えども魂魄は御国の海軍に留まり、いささかの力を尽くすべく候。勝敗のこと御安堵あらまほしく」と言って、描き消えた。
「坂本竜馬とはいかなる人物か…?」と翌朝、皇后宮大夫の子爵香川敬三に下問された。竜馬とはむろん懇意であったし下手人の探索にも力を尽くした男だったので土佐海援隊の事を説明申し上げたが、皇后は何故それを訪ねたかは打ち明けられなっかった。
ところが…翌7日夜の夢にも同じく白装の武士が現れたため、ついに香川敬三にその一件を明かされた。香川は奇妙に思い、東京の田中光顕に連絡した。往年の陸援隊福隊長だった田中は、この頃宮中顧問官、宮内次官、宮内大臣を歴任するまでになっていた。
さっそく竜馬の写真を一葉手に入れて香川に送った。香川は女官を通じてその写真を皇后の部屋の一角に置いておくと、皇后は慌ただしく香川を呼ばれ、「この人である!」と言われた。
「眼鋭く、眉逼り、肉落ち、髪も乱れておどろである、奇相であるためまぎれもない」と皇后は言い、「この撫で肩に桔梗の紋まで同じです」と言い添えた。
この話は“皇后の奇夢”として都下の総ての新聞に載り、世間ではその話題で持ちきりになった。そして宮中御歌所は長歌を作って時事新報に載せ、杉谷代水は琵琶歌を作って人に演じさせ、柏木城谷は長歌作って新聞に発表した。ここから、竜馬の名はにわかに有名になったのです。
司馬遼太郎さんの『竜馬が行く』でも書いてあります。
こほど有名な竜馬が、明治の終わる頃まで無名だったとは…。解からない物ですね。それほどこの頃は、現代のような情報網で一般庶民には伝わらなかったと言う事ですかね?
そして庶民は、尊王だの攘夷などには無関心だったのかも・・・・
明日は英雄竜馬の名言を書いてみたいです。
さて今日は少し動画で手をやります。
また書きます。