中国と日本の戦国期は似ている。 | 脳溢血からのゆうき

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お早うございます。


中国の戦国時代は紀元前403年から紀元前221年までをいいます。

戦国時代という時代呼称は、後世の史家が紀元前1世紀の書物『戦国策』からとって名づけたものです。

日本の“戦国時代”は中国史をまねた呼称ですよ。そうして[秦]の始皇帝の中国統一で終わりを告げます。


日本では足利幕府の室町時代に、応仁の乱が勃発します。それ以後いわゆる下克上(家来が主君を討つ)そんな事が日常茶飯事になって、全国に広がっていきます。

そして…信長ではなく、秀吉の天下統一で戦国が終わります。

どちらも統一国家が出来てから終わる。それはそうですね、安定しなければ戦争は終わらない。


中国の戦国時代には…、「戦国の四君」と言われた人がいました。[斉]の猛嘗君、[趙]の平原君、[楚]の春申君、[魏]の信陵君。

特に有名で日本でも馴染みのあるのが、猛嘗君です。この人は[斉]の王族の子孫で、長い間[斉]の宰相を務めましたが、王と不仲になり[魏]の宰相になり、次に[秦]の宰相にと求められ[秦]に行きます。

この四君が養っていたのが、それぞれ食客3000人と言われています。

他の三君の食客は名士と武士ばかりでしたが、猛嘗君の食客には武士のほかに、一般の平民あり、盗賊あり、物まね名人ありで、変な人というか一芸にに秀でた人達も入っていました。


家来と一緒に数十人の食客も連れて行きます。[秦]に着いて王様に狐白裘(こはくきゅう)という裘(かわごろも)を上げます。これは狐の腋毛の白い部分からほんの少し取れる(何万匹も必要)だけの衣でこれ一つで小国が一つ買えるといわれている品物です。

[秦]に着いて数日後に、食客の一人が「王が猛嘗君達を殺す」との情報をつかんできます。そこで一計をはかり、盗賊を王宮に忍び込ませ裘を盗み出させ、それを后に渡して道中手形を貰い、[秦]を出たのですが、途中の函谷関はまだ夜中のために関が開かない…。一番鶏の鳴き声を合図に、この関は開きます。

そこで物まね名人が、鶏の鳴きまねをして鶏達を起こし、関を開かせ無事に脱出に成功する。…という【鶏鳴狗盗】の故事が生まれる逸話が出来ました。


日本では枕草子の作者の清少納言が「夜をこめて、鳥の空音は、はかるともよに逢坂の関は許さじ」と【鶏鳴狗盗】の故事を詠んだ(これは百人一首にも採られている)歌です。

こんな平安期にもう司馬遷の『史記』が日本では知れ渡っていた。驚きですね。イギリスの歴史学者E.H カーは「歴史とは、現在と過去の対話である」という名言を残しましたが、まさしく本当ですね。


又書きます。