最近になって再燃した考古学 | 脳溢血からのゆうき

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お早うございます。


私は小学校4年から、新聞配達や納豆売り等のアルバイトを始めて、自分の欲しい物を買いました。

野球のグローブや主に本ですが、平成8年に倒れるまでは、本当に考古学が好きで色々な文献を読み漁りましたし、多くの土地を訪れました。大勢の作家の本を読みはてなマーク(ハテナ)が生まれました。

『三国志』とは[魏]、[呉]、[蜀]の三国です。当然に呉志、蜀志、魏志が有るわけです。その魏志倭人の条、すなわち魏志倭人伝の中に[邪馬壹国]卑弥呼の事が書かれています。

【倭人は帯方(たいほう)の東南大海のなかに在り山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。旧(もと)百余国、漢のとき朝見するものあり、今使訳する所三十国】(魏志倭人伝)


【郡より倭に至るに海岸に循(したが)いて水行し韓国を歴(めぐ)るに乍(たちまち)南し乍東し其の北岸狗耶(くや)韓国に到る七千里始めて一海を渡る千余里対海国に至る・・・・・又南一海を渡る千余里。・・・・・・一大国に至る又一海を渡る千余里末蘆国(まつろこく)に至る・・・・・東南陸行五百里伊都国に至る・・・・・・東南奴国(ぬこく)に至る百里・・・・東行不弥国に至る百里。・・・・・南投馬国(みなみとうまこく)に至る水行(すいこう)二十日南邪馬壹国に至る女王の都する所。水行十日陸行一月】 


これが倭人伝に書かれている内容なんですが、この事が何で多くの学者が揉めるのか、当時は解かりませんでした。

この事は江戸時代までさかのぼらなければなりません。

江戸時代の儒学者で松下見林が最初で、後が本居宣長、新井白石などの国学者が神武天皇万世一系の近畿天皇家の事で他に王朝など在りえない…との考えから、邪馬壹国を邪馬臺国(やまだいこくをやまと)と読み大和(やまと)王権への思いを強烈に押し付けた結果です。

その後は明治期に入り内藤湖南、白鳥庫吉、京大、東大の学術論争に発展したのはご存知の通りです。

橋本増士、榎木一雄、三宅米吉、肥後和男、植村清治、富木隆、笠井信也、志田不動麿、藤田元春、新しい人では梅原猛、安本美典、古田武彦、江上波夫などは騎馬民族征服王朝説など、かなり馬鹿馬鹿しい物までありますよ。

松本清張や、高木彬光など推理作家までがこの論争に加わっています。


長くなりますので続きは又明日書きます。