やく10日の休みを経て、ぼくちゅうが再開された。
かなり前から、MIXIで「マスカレードではさらに驚くことをやってみたい」と、くろわっさんが言っていたのは、なんとダブルストーリーのことだった。
1つの時間経過を、ふたつの事柄が同時に運ぶというもので、海外ドラマではかつてあったが、小説としては極めて珍しい。
アップ時間がかなり乱れているところをみると、くろわっさんのスランプ(?)は、終えていないように思えるが、継続された花ちゃんのガールズサイド、本来のボーイズサイドともに、じゅうぶんにおもしろい。
特にボーイズサイドは、時間がもどっていることもあり、かつての序章あたりを彷彿させてくれる。
その手法はさすがに「ぼくちゅう」らしく凝っていて、だ体のガールズサイドから、です体のボーイズサイドに移る際、かならずキーワードが引き渡されている。
話は(予想通り)ボーイズサイドから始まり、いきなり「駐在さんの転勤」という脅しで入ってきた。
これはかなりねぼけまなこで読んだ読者でも、惹き付けられざるを得ない。
期間をおいての導入部は、かなり大事なわけだが、実にうまい演出だ。
ガールズサイドは、花ちゃんが東北へ向かう飛行機。
ジェミー並みの「男センセ」は、ますますパワーアップしていて、まずここで「トイレ」でボーイズサイドへと引き継がれる。
次が「草むしり」。
次が「飛行機」。
まるで違う2つの話であるため、つなぎ部分に共通項を持たせる手法。
これは映画などで使われているものだが、心憎い演出だ。
しかも2つのストーリーに使われるギャグは、まるで異種のものである。
話のテンポは、以前のマスカレードより速く、本来の「ぼくちゅう」に近い。
ここからどんなふうにフィナーレに結びつけるのか。
お手並み拝見と言えば、席が高いか?
「ぼくちゅう」は何度も書いたように最終的には歴史が判断する物語だ。
同様に、くろわっさんの好む好まないにかかわらず、すでに相手は同じネット小説家ではなく、プロの作家となってしまった。
本人には、その意識がかなり薄いようで、これが時おりトラブルの原因になっているのではないか。
今回、ブログに「再開にあたって」のくろわっさんからのコメントが掲載されたが、実は読者の多くは、すでにくろわっさんを「ただの素人」とはまったく思っていない。
あまりに素人離れしているため、すでに玄人としてのそれを期待されている。
実際、私が知る限りでも、「ぼくちゅう」より引き込まれた小説というのは、自称「本の虫」の私にも、まったく存在しない。
それは日々アップされることの「魔法」に、まんまとひっかかっている、というのも大きいのだが、いずれにせよ当人が公言しているように、10歳児から80歳近い人までひきつける物語というのは、日本小説史にもほとんどないのは確かだ。
上に素人離れしている、とは書いたが、くろわっさんの文章は、けして「玄人裸足」といったものではない。
どちらかと言えば「息子の作文」をわくわくと読むような楽しさがあり、演出方法は、よくよく考えると手塚治虫のそれによく似ている。
ここに対称として非常におもしろい作家がひとりいる。
タイトルにも書いた「伊坂幸太郎氏」だ。
映画原作で引っ張りだこ同氏だが、奇しくも『死神の精度』が、ほぼ『ぼくちゅう』と同じ時期に公開された。
『アヒルと鴨のコインロッカー』もそうだが、この人もなかなか脚本家に恵まれない人だ。
まぁ、『ぼくちゅう』ほどではないが。
年齢はくろわっさんよりは、かなり下。
文章は巧妙で、若い読者層を満足させるのに必要にして十分だ。
物語は『ぼくちゅう』とは対称的に、ありえないことを、ありえないように書かれる。
『ぼくちゅう』は、ありえなそうな話に、すさまじいリアリティを加えてくるのと、まったく逆の手法である。
が、どちらも「夢」がある。
なのにまったく違う。
悪く言えば、伊坂孝太郎作品は、秀才の文学青年が、机上で書いている、というのがよくわかる。
若いゆえに体験が少ないからだろう。
時おり、「それはない」と声に出しそうになるほどに、下調べが「辞書の中」なのだ。
対して『ぼくちゅう』は、ただのコメディでありながら、物語に登場する小物は徹底的だ。
たとえば銀行。
『陽気なギャングが地球をまわす』では、ありえない説教強盗が行われるが、どんなふうにがんばってもこのようにうまくはいかない。
ところが、『ぼくちゅう』で行われた銀行強盗は、裏に通されるまで、実にリアリティに溢れている。
現在、同じことを行っても、ほとんど同じことが起こってしまうだろう。
銀行ロビーの狭さ。巻き込まれる人たち。
それは誰しもが容易に頭に浮かべることができる。
キャラクターにおいても『陽気な~』に登場する体内時計を持つ女性。
映画ではさらにつまらなく描かれていたが、物語中でもさほどにおもしろくない。
そこにきて『ぼくちゅう』メンバーの銀行強盗のなんと魅力的なこと。
伊坂孝太郎氏は、近年の直木賞作家などにくらべたら、十分に魅力的な作家だ。
読者年齢層も広く、後の赤川次郎にはなり得る最右翼だろう。
対するくろわっさんの『ぼくちゅう』。
その文章運び、表現力は、文学青年のそれではない。
失敬だが、あまり本を読まなかった人なのではないだろうか。
文章は稚拙さやあいまいさが残る。良くも悪くも「文章が書ける高校生程度」である。
つまりは、くろわっさんの人を惹き付ける能力は、まさしく「天性」のもので、それが数多くの「経験」で裏付けられている。だから文章がおもしろい。
宗教団体と戦う、などという、ありえないような話でさえ、どこからがフィクションなのか、まったくわからない。
私は「8章:マリア様によろしく」の、美奈処登場場面をまったくの作り話として読んでいたが、後に実際美奈処にいた、という人が現れたのには本当に驚いた。
「~処女を守る会」が、大学生に大流行するのは、高橋留美子作の『うる星やつら』の主人公「ラムちゃん」の時にピークを迎えるが、そう考えると確かに不思議のない話でもあるのだが。
くろわっさんによれば、あの場面は、そのまま書くと嘘のように見えるので、規模を縮小して書いている、という。
確かに、70年代は、反戦デモの名残があって、それに憧れた当時の悪ガキたちが、異様に大人数の争いをしたものではあった。それは時おり新聞を賑わせたりもしたので、まんざら嘘とも言えないのかも知れない。
ブログの素人小説家であるくろわっさんが、超売れっ子作家の伊坂孝太郎氏と肩を並べるのには、まだ少し時間がかかるだろう。
だが、その時、どちらが上と言われるかは、その時代の読者にまかせることとしよう。
同様に、くろわっさんの好む好まないにかかわらず、すでに相手は同じネット小説家ではなく、プロの作家となってしまった。
本人には、その意識がかなり薄いようで、これが時おりトラブルの原因になっているのではないか。
今回、ブログに「再開にあたって」のくろわっさんからのコメントが掲載されたが、実は読者の多くは、すでにくろわっさんを「ただの素人」とはまったく思っていない。
あまりに素人離れしているため、すでに玄人としてのそれを期待されている。
実際、私が知る限りでも、「ぼくちゅう」より引き込まれた小説というのは、自称「本の虫」の私にも、まったく存在しない。
それは日々アップされることの「魔法」に、まんまとひっかかっている、というのも大きいのだが、いずれにせよ当人が公言しているように、10歳児から80歳近い人までひきつける物語というのは、日本小説史にもほとんどないのは確かだ。
上に素人離れしている、とは書いたが、くろわっさんの文章は、けして「玄人裸足」といったものではない。
どちらかと言えば「息子の作文」をわくわくと読むような楽しさがあり、演出方法は、よくよく考えると手塚治虫のそれによく似ている。
ここに対称として非常におもしろい作家がひとりいる。
タイトルにも書いた「伊坂幸太郎氏」だ。
映画原作で引っ張りだこ同氏だが、奇しくも『死神の精度』が、ほぼ『ぼくちゅう』と同じ時期に公開された。
『アヒルと鴨のコインロッカー』もそうだが、この人もなかなか脚本家に恵まれない人だ。
まぁ、『ぼくちゅう』ほどではないが。
年齢はくろわっさんよりは、かなり下。
文章は巧妙で、若い読者層を満足させるのに必要にして十分だ。
物語は『ぼくちゅう』とは対称的に、ありえないことを、ありえないように書かれる。
『ぼくちゅう』は、ありえなそうな話に、すさまじいリアリティを加えてくるのと、まったく逆の手法である。
が、どちらも「夢」がある。
なのにまったく違う。
悪く言えば、伊坂孝太郎作品は、秀才の文学青年が、机上で書いている、というのがよくわかる。
若いゆえに体験が少ないからだろう。
時おり、「それはない」と声に出しそうになるほどに、下調べが「辞書の中」なのだ。
対して『ぼくちゅう』は、ただのコメディでありながら、物語に登場する小物は徹底的だ。
たとえば銀行。
『陽気なギャングが地球をまわす』では、ありえない説教強盗が行われるが、どんなふうにがんばってもこのようにうまくはいかない。
ところが、『ぼくちゅう』で行われた銀行強盗は、裏に通されるまで、実にリアリティに溢れている。
現在、同じことを行っても、ほとんど同じことが起こってしまうだろう。
銀行ロビーの狭さ。巻き込まれる人たち。
それは誰しもが容易に頭に浮かべることができる。
キャラクターにおいても『陽気な~』に登場する体内時計を持つ女性。
映画ではさらにつまらなく描かれていたが、物語中でもさほどにおもしろくない。
そこにきて『ぼくちゅう』メンバーの銀行強盗のなんと魅力的なこと。
伊坂孝太郎氏は、近年の直木賞作家などにくらべたら、十分に魅力的な作家だ。
読者年齢層も広く、後の赤川次郎にはなり得る最右翼だろう。
対するくろわっさんの『ぼくちゅう』。
その文章運び、表現力は、文学青年のそれではない。
失敬だが、あまり本を読まなかった人なのではないだろうか。
文章は稚拙さやあいまいさが残る。良くも悪くも「文章が書ける高校生程度」である。
つまりは、くろわっさんの人を惹き付ける能力は、まさしく「天性」のもので、それが数多くの「経験」で裏付けられている。だから文章がおもしろい。
宗教団体と戦う、などという、ありえないような話でさえ、どこからがフィクションなのか、まったくわからない。
私は「8章:マリア様によろしく」の、美奈処登場場面をまったくの作り話として読んでいたが、後に実際美奈処にいた、という人が現れたのには本当に驚いた。
「~処女を守る会」が、大学生に大流行するのは、高橋留美子作の『うる星やつら』の主人公「ラムちゃん」の時にピークを迎えるが、そう考えると確かに不思議のない話でもあるのだが。
くろわっさんによれば、あの場面は、そのまま書くと嘘のように見えるので、規模を縮小して書いている、という。
確かに、70年代は、反戦デモの名残があって、それに憧れた当時の悪ガキたちが、異様に大人数の争いをしたものではあった。それは時おり新聞を賑わせたりもしたので、まんざら嘘とも言えないのかも知れない。
ブログの素人小説家であるくろわっさんが、超売れっ子作家の伊坂孝太郎氏と肩を並べるのには、まだ少し時間がかかるだろう。
だが、その時、どちらが上と言われるかは、その時代の読者にまかせることとしよう。
休筆されてからも、毎日アップされるぼくちゅう。
毎回ネタが違うところがくろわっさんらしい。
さて。こちらではひさしぶりにキャラクターをとりあげてみたい。
今回は、最も早く登場するアイドル。「夕子ちゃん」だ。
駐在の奥さんである加奈子さんを除けば、最初のヒロインではあるのだが。
井上夕子 登場時14歳
グレート井上家の長女で、鉄壁の兄に守られている
所有するぬいぐるみ「デートリッヒ」ともども、武闘派に狙われるが兄がことごとくガード。
ママチャリに片思いしているが、結局は村山と結ばれる。
と、ここまで書いて、この子の性格については実はよくわからない。
やさしい子で明るく、頭の良さは兄以上の優等生?
おおざっぱにこれくらいだ。
当初、くろわっさんは、「夕子ちゃん」をヒロインとして仕立て上げようとしていたことは間違いない。
が、映画でもちょい役に終わったように、物語でもいまひとつぼやけたヒロインだ。
最も登場するのは番外編の『デートリッヒ物語』の所有者として。
そこでも夕子の性格はいまひとつ明確に描かれていない。
その後の、澪ちゃん、バナナちゃん、はては瑞穂、竹内さんなどが、かなりはっきりとして描かれているのに、不思議である。
14章によれば、ママチャリが最もよく知る女性であるはず。
端的に、これは「失敗」したのだろう。
その後、ママチャリの恋人となる「和美」との葛藤を描くのに、夕子の性格の良さを描ききれなくなってしまった、といったところか。あるいは類似してしまったか。
私の目からは、夕子と和美の性格差はまったく読み取れない。
孝昭や西条への薄情さだけ見ると、夕子のほうがきつい。
もっとも、夕子を描こうとすれば、当然井上家全体が登場しなくてはならないわけであるから、そうそうスポットを当てられない、というのも理解できる。
が。脇役としての夕子の地位はかなり重要で、登場回数も多い。
物語を締める上では、もう少し性格を描くべきであっただろう。
特に前半には、恋愛はほとんど登場しないので、スパイスとしての夕子は重要だったはずだ。
実にもったいなく、できればスピンアウトとして、書いていただきたいキャラクターだ。
毎回ネタが違うところがくろわっさんらしい。
さて。こちらではひさしぶりにキャラクターをとりあげてみたい。
今回は、最も早く登場するアイドル。「夕子ちゃん」だ。
駐在の奥さんである加奈子さんを除けば、最初のヒロインではあるのだが。
井上夕子 登場時14歳
グレート井上家の長女で、鉄壁の兄に守られている
所有するぬいぐるみ「デートリッヒ」ともども、武闘派に狙われるが兄がことごとくガード。
ママチャリに片思いしているが、結局は村山と結ばれる。
と、ここまで書いて、この子の性格については実はよくわからない。
やさしい子で明るく、頭の良さは兄以上の優等生?
おおざっぱにこれくらいだ。
当初、くろわっさんは、「夕子ちゃん」をヒロインとして仕立て上げようとしていたことは間違いない。
が、映画でもちょい役に終わったように、物語でもいまひとつぼやけたヒロインだ。
最も登場するのは番外編の『デートリッヒ物語』の所有者として。
そこでも夕子の性格はいまひとつ明確に描かれていない。
その後の、澪ちゃん、バナナちゃん、はては瑞穂、竹内さんなどが、かなりはっきりとして描かれているのに、不思議である。
14章によれば、ママチャリが最もよく知る女性であるはず。
端的に、これは「失敗」したのだろう。
その後、ママチャリの恋人となる「和美」との葛藤を描くのに、夕子の性格の良さを描ききれなくなってしまった、といったところか。あるいは類似してしまったか。
私の目からは、夕子と和美の性格差はまったく読み取れない。
孝昭や西条への薄情さだけ見ると、夕子のほうがきつい。
もっとも、夕子を描こうとすれば、当然井上家全体が登場しなくてはならないわけであるから、そうそうスポットを当てられない、というのも理解できる。
が。脇役としての夕子の地位はかなり重要で、登場回数も多い。
物語を締める上では、もう少し性格を描くべきであっただろう。
特に前半には、恋愛はほとんど登場しないので、スパイスとしての夕子は重要だったはずだ。
実にもったいなく、できればスピンアウトとして、書いていただきたいキャラクターだ。