ナガサキとヒロシマ。
このふたつの場所は、
ここ数年訪れたいと思っていた場所で
今回、長崎に行く機会を得ることができました。
一番の目的は
平和公園と原爆資料館。
そして被爆マリアがあるという浦上天主堂。
季節はちょうどランタンフェスティバルの頃で
長崎市内は街並み全体が中華街みたいな賑やかさでした。
最初に訪れた浦上天主堂。
遠くから見えた赤レンガの姿が美しい。
協会内は、ブルーのステンドグラスが綺麗な
静寂な、静謐な空間でした。
そして、平和公園の平和祈念象。
祈念象が向いている方向は、
グランドゼロ。爆心地。
静かに見つめています。
浦上天主堂の、首のない聖人象を見た時
平和祈念象と初めて対面した時
涙が溢れました。
ずっと来たかった場所。
ようやく来ることができた、
ようやく会えた。
そして、
ここは壮絶な体験をした場所なんだな、と。
すべて、静かに佇んでいました。
余計に胸に刺さりました。
爆心地。
そして原爆資料館へ。
広島と長崎に行って
もし語り部やガイドの方がいたらお話を聞きたいと思っていたので、
資料館ではボランティアガイドの方をお願いすることにしました。
ニコニコと笑顔で現れた男性ガイドの内田さん。
まずは長崎の街の歴史、キリスト教の入ってきた経緯から分かりやすく説明をしてくださいました。。。
最後まで長崎は原爆投下の候補に上がっていなかったそう…
本来であれば、爆撃は広島に投下された時刻の午前8時ごろなんだそうですが、、
1945年8月9日当日、長崎上空は雲に覆われていて、燃料ギリギリまで旋回していたところ、雲が一部晴れたので原爆が投下されたとの話。
アメリカ軍の目的の場所の造船所とはずれた、
市内だったそうです。。。
もともと関心のあることだから
今までも広島・長崎の原爆資料館の展示物やそれにまつわる話などをネットで見ていたのですが
画像ではなく、
文字ではなく、
映像ではなく…
人からきちんと話を聞くこと、実物を見ることの大きさを実感しました。
心に入ってくる度合いが違うから。
ガイドの内田さんが、「背中一面に火傷を負った少年」として資料館にパネルが飾られている男性に
「長生きせんばいけんね」と声を掛けた時、
「内田くん、そう簡単に言うたらあかん」と言われたそうです。
「死にたい」と何度も思った、と。
背中一面にガラス破片が刺さり、
何度も手術を繰り返した方は、
ガラス破片を年月をかけて幹の内部に取り込んだ木の断面を見て、
自分と重ね合わせたそう。
隣にいた人は亡くなったのに、たまたま自分は生き残ってしまった。
たまたま声を掛けて外に行かせてしまったからあのひとを死なせてしまった。
どうしようもない申し訳なさや懺悔。
原爆による怪我や火傷、原爆症などの病気だけでなく。。
パネルや展示物のない、
たくさんの方の、たくさんの想い…
「原爆は、なんというか…心も殺すんですね」
と、内田さんは静かに言いました。
最後に内田さんが個人的に思い入れがあるもの、として説明してくれた展示物は、女性もののブラウスでした。
ガラスで破けた背中の部分。
内田さんの小学校時代の担任の先生のお品だそう。
当日その女性は赤ちゃんをおぶって学校に来ていたそう。
赤ちゃんを背中から抱き直した瞬間に原爆が落ちました。
九死に一生を得た女性と赤ちゃん。
そのまま赤ちゃんをおぶっていたら、赤ちゃんは助からなかっただろう、と。
自宅にいた女性の旦那様、二人の子供、義理の両親は助からなかったそうです…
小学校当時、内田さんはその担任の先生がそんな体験をされていたなんて知らなかったそうで、大人になってから話を伺ったとのこと。
「そして、今は自分がここでボランティアガイドをしています」
と、笑ってくれました。
おそらく70代の内田さん。
とても爽やかな笑顔でした。
当たり前なんですが…
長崎の街に暮らす人たちにとって、
爆心地も、平和公園も、原爆資料館も
生活の中にある場所であり
小さな頃から当たり前のように存在するもので。
内田さんとお話をしていて、
長崎の街が受けてしまった大きすぎる痛みや想い、それは大切にしていくと同時に、これから先の平和について考えている姿が印象的でした。
先へ想いを繋げていこうとしている姿。
「戦争は、被害者にもなるし加害者にもなりますね」
とおっしゃった内田さんは、やはり静かで穏やかな口調でした。
人が語るものには、想いがある。
ガイドをしていただいて本当に良かった。
内田さん、ありがとうございました。


