2011年、10月② | 東京日記(未完)

東京日記(未完)

音楽、文学、酒やあれこれを無軌道、無造作に。

年の瀬、母からの電話。



「お父さん、お酒飲んでるかもしれない」





離婚してからも何かあるたびに母を頼って電話をかける父だったので、その時も酔った勢いで電話をかけたのでしょう。




「かもしれない」と言うことは「そうじゃないかもしれない」



その可能性を残しつつ、確認するために父に電話をしました。


すると、父はあっさりと「飲んでいる」と認めました。
そこでうまい具合に嘘を並べ立ててはぐらかす程にこすっからい人間ではないことが再確認できたことだけにはホッとしましたが、やはり落胆の方が大きい。



半ばふっかけで絶縁宣言を叩き付けて、自分のしてしまったことを考えさせようと思った自分に対して、間髪入れずに父から「絶縁してもいいぞ」と思いがけない一言をくらってしまったもんだから、正直、面食らってしまいました。





ならばその通りにしてやろうか、と頭にきましたがここは冷静にならなければ。それに、それが虚勢で後で父自身が一番後悔することはわかっているから。

そうやって突っぱねるように、強がるようにして離婚したことを一番後悔したのもまた、本人でした。





両親の離婚届けに署名をしたのは、僕と妹です。


10代の頃は、両親が離婚するなんて絶対にイヤだった。でも自分も少しは大人になって冷静に、と言うか諦めみたいな感じで受け入れるようになった。

もうそろそろお母さんは解放されてもいいんじゃないか、ってね。



だからお父さんがいかに後悔しようが、そういう結果になったことは母を救ったことになるんだろう。
時が経てば経つほどそれは間違いじゃなかったって思えるのも何だか虚しいし、皮肉ではありますが…。





まぁ、そんな父の性格をわかっちゃっているから、放ってはおけない。

息子だし、父が入院したその時までの男二人の共同生活も、そう悪いことばかりではなかったし、法的な手続きによって僕が父の保護者ってことになってるし(なかなかないでしょ、これ)




そんなわけで、とりあえず年明け(2011年です)に会おうってことになりました。妹家族も一緒にね。




意外や意外。

そこで久しぶりに再会した父は、思った以上にしっかりとした口調と足取りでした。


やはり仕事をしているという責任感と充実感が本人を支えていたのでしょう。



何かあったら必ず連絡をすることを約束させて、その時は別れました。




それからは季節が変わる毎に一回は連絡を取り合いました。


3月の大震災の時にはお互いを励まし合い、9月の僕の誕生日には日付が変わる少し前に電話がかかってきて、照れ臭そうにしながらの「おめでとう」の言葉には正直嬉しく思いました。






それだけに、ひと月後に父の姉さんからかかって来た一本の電話には驚いてしまいました。



(続)