西日が眩しくなってきた頃、キルギスの首都ビシケクの市内に入った。真新しいキルギス語の看板が取り付けられたソビエト的な古い建物。緑の並木道と狭い道路。壁には今なお社会主義時代を思わせる壁画も残っていたりする。


アルマティからやって来たというのに、いつか見た昔のアルマティにタイムスリップしたかのような錯覚。中央 アジアで最も民主化が進んだ国の首都は、ひょっとすると一番ソ連のカラーが残っていると言っても過言ではないだろう。地下資源が乏しく経済発展に遅れを とっていることもあるだろうが、一方でそれは独立後の大統領がソビエト体制をも超える偉大な指導者だと知らしめるため、国を新たな幻想世界に作り直すこと を優先した他の中央アジア諸国とは異なる価値観のもとで今日まで歩んできたから、とも受け取れる。


 国会や政庁が整然と並ぶマナス広場は正にビシケクの中心だ。赤地にユルタが描かれた巨大なキルギス国旗が、兵士に見守られながら青く澄んだ空を包み込むが如く翻る。

その隣で勇ましいポーズを決める騎馬像はキルギス民族をまとめ上げた最初の君主と言われるマナス王。キルギスの民族叙事詩に登場する英雄なので、日本で言うならさしずめヤマトタケルノミコトといった所か。


涼しい時間帯ゆえか、夕涼みのような人々が広場で思い思いにくつろいでいる。日本人そっくりな容姿のキルギス人も、イワンと同じようなロシア人 も、違和感無くそこら辺をぶらぶら。一見威厳に満ちた国会やマナス像もまた鳥達の憩いの場となっている。僕も周囲のキルギス人みたく、カルパック帽(フエ ルト製の白い山高帽)をかぶりながら広場をブラつき、しばし移動の疲れを癒したのだった。

 


 まだ陽は落ちていないが、18時を過ぎた頃にホテ ル・アク・ケメに到着。町外れにあるインツーリスト(ソ連国営旅行社)系と思われる大型ホテルだ。大きい割に中はガランとしていて、薄暗い。エレベーター の扉は開いてから一秒か二秒しないうちに閉まってしまうので、電光表示灯が自分のいる階まで上がってくる様子に全てを集中させ、扉が開くその瞬間に突入し なければならない。自分はもちろんのこと、年配の欧米人宿泊客が扉を前にしながら締め出されてしまっているのも何度か目撃した。彼等もあきれ返っている様 子だった。

 このホテルで夕食が既に予約されていたので一階の食堂へ向かうと、何と僕一人。白い壁とテーブルはきれい きれいしているものの、料理は相変わらずキルギス料理というわけでもないスープと肉。そんなに美味いものでもない。これならプランの時に予約などしなけれ ばよかった。軽く街に出てレストランでも開拓したかったな。

国境を越えてキルギス側に入った時、何気なく撮影した看板を後で見てみるとそれは少数民族の回族(ドンガン族)料理店の看板のようだったが、むしろそういう料理が食べたかったのにな、とちょっと後悔。


カチンカチンに凍ったアイスクリームにエイヤッとスプーンを突き刺してデザートを味わった後、溜息をついて部屋に戻った。

 

 何だか気分的に物足りず、少しホテルを出て散歩しようとしたが、この辺りは街灯が少なくて暗い上、車道が多いので歩きにくい。ここが市内のどの辺で、近くに何があるのかもわからなかったので、結局ホテルに戻ることにした。

 実は僕、北京留学時代にMというキルギス人の友人がいた。そして在学中だった90年代、一時帰国する彼を訪ねてキルギス旅行を計画したことがあった。当時はこの国もビザが必要で、最大の障壁であった現地からの招聘状もMの 家族が発行してくれることになったのだが、それでもキルギスビザ、途中経由するカザフスタンビザ、そして中国の再入国ビザを取得するのにそれぞれ一週間ず つ要すること、アルマティへの空路はウルムチとしか結んでおらず、しかも当時旧ソ連では外国人料金がまだ横行しており、ウルムチ・アルマティ便の運賃は学 生が気軽に出せる金額でなかったこと、運賃節約のため北京からウルムチまでを鉄道にするとこれまた日数がかかり、目的地に着くまでにはほとんど休みが終 わってしまうこと等々、悪条件の雨あられで結局断念したのだった。

 あれから20年近くの月日が経ち、キルギス行きが再度プランされた今回、卒業後音信不通だったMと偶然Face Bookで つながった。しかし残念ながら彼は現在中国で仕事をしており、この時期もキルギスにはいないとのことだった。ビシケクで旧友との再会は成らず、か…。僕は とこの国との縁は、さほど太いものではないらしい。キルギス初日の夜は結局ホテルの部屋で一人テレビを見ながらゴロ寝で締めくくったのだった。