2000年12月14日『伊方原発訴訟』の判決が、誤った認識で下された日に、原発の《安全神話》が誕生し、
いつか日本のどこかで、悲劇的な原発事故が起きる、いや、起こす運命が始まってしまった。

伊方原発訴訟//

旅するとんぼ玉~骨董屋の娘・・もとい女房の言いたい放題。さまより
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【この記事に出てくる京都大助手の海老沢徹氏は、今注目されている熊取6人組の一人。

伊方原発訴訟・・・それは、1973年、原発周辺住民が、原子炉設置許可の取り消しを求めて起こした
日本で最初の原発裁判である。

1978年4月、松山地裁で棄却判決。住民側は高松高裁に控訴。
 同 6月、住民が2号機の設置取り消しを求めて提訴。これは弁護士をつけない本人訴訟であった。
1984年12月、1号機裁判に高松高裁、棄却判決。住民側は最高裁に上告。
1992年10月、1号機裁判に最高裁、棄却判決。
2000年12月、2号機訴訟に松山地裁、棄却判決。住民側、控訴せず・・・

23年という長きにわたった住民達の闘いは、被告である国側も司法も住民側の訴えに耳を貸すことなく
終わった。
「行政・議会・司法、そして警察、さらに学者までが一体となった原子力の推進は苛烈であり、
住民の力はあまりにも弱い。

刀折れ矢尽きるように、いや住民は初めから刀も矢も持たず、ある時は警察に弾圧され、
ある時はだまされ、ある時は資財を擲ったあげくに倒れていった。

残ったものも自分の命を削るように抵抗を続けてきたが、闘いの当初若者であった人々もいまや老年に
さしかかっていた。。」(斉間満著「原発の来た町 伊方原発の30年」内、小出裕章氏の文章より)
小出裕章氏もまた、熊取6人組の一人だ。】 一部抜粋

NHK・ETV特集 シリーズ 原発事故への道程
 『そして“安全神話"は生まれた』
【1973年石油ショックの翌年に電源三法が成立し、「安全」を前提に原発建設が加速していった。このとき、
日本で初めて原発の安全性を科学的に問う裁判「伊方原発訴訟」が始まっていた。

 裁判は原発建設に反対する地元住民と科学者達による原告と、建設を推進しようとする国によって争われた。そこでは今回の福島原発で起きた「全電源喪失」や「炉心溶融」等の事態が粗すべて遡上に載せられていた。

 公判中にスリーマイル島やチェルノブイリ原発の事故も起き、安全性の見直しが迫られる状況も生まれた。
しかし最高裁は「行政裁量の分野」だとし、反対派の訴えを退けた。

 原発の安全性を正面から問うルートが失われるなか、誰も疑問を挟めなくなった行政と業界、学術界により
安全神話は膨張していくことになる。

 日本における最初で最後の本格的な原発法廷の消長を軸にして、安全神話がいかにして一人歩きしていったか、その歴史的メカニズムを検証する。】


20110918 原発事故への道程(前)1 投稿者 PMG5

20110918 原発事故への道程(前)2 投稿者 PMG5
ETV特集「シリーズ 原発事故への道程(前編) 置き去りにされた慎重論」 メモ&感想

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ETV特集「シリーズ 原発事故への道程(後編) そして“安全”は神話になった」 メモ&感想

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