たとえば、もし 雲が動く音だと信じていた音が

未だに飛行機が空を振動させている音だと知らずに、いたなら。

僕はまだ、素直な気持ちをもっていただろうか。

‥そうであれば良かったと思う。そうであれば良かった。

けれど、そんなことはないのだろう。いつか幼き日々は終わる。


自殺。自死。縊死。

Ustで生放送しながら、その生命を終えることを選んだ彼は、

人生の終わり方を自ら演出した演出家なのだろう。


死とは、誰にでも当然訪れる当たり前のことでしかない。

死は汚れか?それは違う。だが、人は誰かの死を見る時、

自らにも終焉が訪れることを否が応でも思い知らされる。


もう会えない。話すこともできない。

終わりだ。

生まれた環境もあって、幼い頃からキリスト教には親しんできた。

約束された来世の為に、現世において自らを戒めながら生きる。

それは、それで素晴らしい生き方のように思える。

私が知る人達は、教会に救われるために行っているのではない。

自らの人生をより充実させるために、人間として成長するために、

教会へ訪れる。そしてそれは訪れる来世をより良い状態で迎えるための準備なのだ。

彼らは来世が来ることを信じている。だから今すぐ来世が訪れなくてもまだ時期ではないと

あの達観した目で私を見るのだろう。


私は、死を恐れる。それは私がまだ自分の人生をおもいっきり生きることから

逃げているせいでもあり、無慈悲に私から大切な人を奪っていくことが何よりも怖いからだ。

どうして死はあるのだろうか。理屈はなんとでもこねられるが、感情が納得できないと叫ぶ。

かつての私は見当違いな事を叫んだ。「誰よりも早く死にたい‥!」と。

幼き感情の発露だった。死を小説やテレビの二次元でしか知らず、死への恐怖は不必要な程

肥大化していたのだ。


死は本人がいくら納得した人生の元で終えても周りの人は悲しむ。急にその人が奪われたからだ。

もし、私の周りの誰かが死ぬときは、あの人は自分の人生を謳歌したと満足しているだろうと悲しみの中にも

感じる最後の時を迎えて欲しい。


Ustでこんな晒し者のように死ぬのは悲しい。彼は、それを見た人に忘れていた死を突きつける。

死んだ自分を忘れるな。死ねることを忘れるな。

本当に彼がそう思っていたのかは勿論知らない。

だが、恨みにしろ、悲しみにしろ、そういう想像が出来てしまうことが悲しい。


どうしてこんな事を書こうかと思ったかといえば、知り合いの親友が死んだからだ。

自殺。Ustの彼とは同一人物ではない。

昔、自殺者の統計を見たことがある。その時は数字でしか感じられなかったその一人ひとりが、

死んだときに周りではドラマが起こっていたのだと思うと、居たたまれなかった。

数字でしか見えていなかったかつての自分を恥じて。そして、人はそれぞれ生きているのだということを再認識して。


人は人を傷つけて生きる。それはどうしようもないことだけど、最後位その傷が癒されて終わりを迎えられたらいいね。