『神皇正統記』における「男系」「女系」 | 玲瓏透徹

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あなたの正統性は、どこから?

【目次】

はじめに

1、 欽明天皇の事例
 1-1、「正統」の数え方

 1-2、仁徳天皇の「遺徳」

2、 後三条天皇の事例

おわりに

 

はじめに
 『神皇正統記』(以下、『正統記』)は、14世紀に公家の北畠親房が著した、皇位継承を主軸とした歴史書である。
 現在、皇位継承者の少なさにより、日本の皇室は存続の危機にある。現行皇室典範の皇位継承権を「男系」に限る規定を守るべきか、「女系」にも皇位継承権を認めるべきか、頻繁に議論されている。その際に、南北朝時代の古典『正統記』がしばしば引き合いに出されることがある。

 私は以前、『正統記』と「男系」「女系」に関する記事を書いた(『神皇正統記』と現代の皇統問題 -「男系」「女系」「直系」)。しかし、詳しく説明しようとしすぎるあまり、冗漫に陥ったきらいがある。
 今回の記事では、『神皇正統記』の記載のうち、父方からも母方からも天皇・皇族の血を受け継いだ天皇に関する記載に焦点を当てたい。具体的には、欽明天皇と後三条天皇である。この二人の天皇についての記述から、現代の皇位継承問題の論点「男系」「女系」を考えるうえで参照しうる論理を抽出したい。

 

1、 欽明天皇の事例
 1-1、「正統」の数え方

第三十代、第二十一世、欽明天皇は継体第三の子。御母皇后手白香の皇女、仁賢天皇の女也。

 欽明天皇(第三十代、第二十一世)の父は継体天皇(第二十七代、第二十世)、母方の祖父は仁賢天皇(第二十五代)である。
 「第○代」「第○世」という二通りの書き方があることに気づいた方は慧眼である。これは『正統記』読解の上で重要なことなので、まずはこの二つの違いから説明しよう。
 「第○代」は、歴代天皇の即位した順番である。初代が神武、第二代が綏靖、と続いていき、『正統記』が書かれた時代の第九十六代の後村上天皇に至る。(※1)
 一方、「第○」世は、「第○代」とは異なり、即位した全ての天皇につくわけではない。つく天皇と、つかない天皇がいる。つく天皇は、「正統(しょうとう)」たる皇統に属する天皇である。具体的には、神武天皇から後村上天皇(第九十六代、第五十世)に至る、親子関係に属する天皇である。神武天皇の子の綏靖天皇が第二世、その子の安寧天皇が第三世、という風に数えていく(※2)。
 では、父方からも母方からも天皇の血を受ける欽明天皇は、「第○世」の順番を、どちらの皇統から数えるのであろうか。答えは既に書いている。
  継体天皇(第二十七代、第二十世)
  欽明天皇(第三十代、第二十一世)
 「正統」たる皇統は父方の血統から数えられているのである。先ほどは「親子関係」と書いたが、実質的には「父子関係」にあたる。

 

※1:『正統記』での歴代天皇の数え方は現代とは異なる。本稿での代数は『正統記』の数え方で統一している。

※2:『正統記』では、「第○代」「第○世」の数が一致している景行天皇までは「第○世」の表記がない。

 

 1-2、仁徳天皇の「遺徳」
 周知の通り、武烈天皇(第二十六代)の崩御により、仁徳天皇(第十七代)の皇統は断絶し、仁徳の弟の末裔である継体天皇が即位した。
仁徳天皇は、古来、名君として尊敬されてきた天皇である(『正統記』ではその政治は「ありがたかりし御政」と讃えられている)。詳述は省くが、『正統記』は、優れた政治を行った天皇や有徳な天皇は、その善行が「天」「神」に報いられ、子孫にその「積善の余慶」が及ぶ、という論理を展開している。持明院統(北朝)ではなく、大覚寺統(南朝)の後醍醐(第九十五代、第四十九世)、後村上天皇(第九十六代、第五十世)が「正統」の天皇とされるのは、そちらの皇統の「有徳の余薫」(後宇多院条)を受けているからなのである。
 そのような論理を取る『正統記』は、有徳な天皇である仁徳天皇の子孫が「正統」たりえない不条理を、どのように説明するのであろうか。

(武烈天皇は)性さがなくまして、悪としてなさずと云ことなし。仍天祚も久からず。仁徳さしも聖徳まし<しに、此皇胤こゝにたえにき。「聖徳は必百代にまつらる。」〈春秋にみゆ〉とこそみえたれど、不徳の子孫あらば、其宗を滅すべき先蹤甚おほし。(武烈天皇条)

 武烈天皇は、先祖の「聖徳」を打ち消すほどの「悪」をなした、という論理である。
 一方で、欽明天皇条には次のような記載がある。

両兄まし<しかど、此天皇の御すゑ世をたもち給。御母方も仁徳のながれにてましませば、猶も其遺徳つきずしてかくさだまり給けるにや。

 欽明の二人の異母兄、安閑天皇(第二十八代)、宣化天皇(第二十九代)の子孫ではなく、欽明の子孫が代々天皇となったのは、母方の祖先、仁徳天皇の「遺徳」ではないか、というのである。
 いっそ父方の継体天皇の血統ではなく、母方の血統を「正統」として、仁賢天皇を「第二十五代、第十九世」、仁徳天皇を「第十七代、第十六世」と数えた方が、『正統記』の「積善の余慶」の論理上筋が通りそうなところだが、あくまで『正統記』は父方の継体天皇を「正統」としている。(※3)

 以上、『正統記』の欽明天皇論から指摘できるのは、あくまで「正統」の「第○世」は父方の血統で数えていること、一方で母方の血統からも有徳な天皇の「遺徳」は継承されることの二点である。

 

※3:仲哀天皇条に、代と世の説明として、「代と世とは常の義差別なし。然ど凡の承運とまことの継体とを分別せん為に書分たり。但字書にもそのいはれなきにあらず。代は更の義也。世は周礼の註に、父死て子立を世と云とあり」とある。親房は「周礼の註」の「父死て子立を世」とする記述を典拠に「世」を使っているため、母方の血統を「世」と数えるのは、典拠の上の論理からすると無理筋ではある。


2、 後三条天皇の事例

第七十一代、第三十八世、後三条院。諱は尊仁、後朱雀第二の子。御母中宮禎子内親王〈陽明門院と申〉、三条院の皇女也。後朱雀の御素意にて太弟に立給き。又三条の御末をもうけ給へり。むかしもかゝるためし侍き。両流を内外に〈欽明天皇の御母手白香の皇女、仁賢天皇の御女、仁徳の御後也〉うけ給て継体の主となりまします。

 後三条天皇(第七十一代、第三十八世)は、後朱雀天皇(第六十九代、第三十七世)の子で、母方の祖父は三条天皇(第六十七代)である。(※4)
 後三条も欽明天皇と同じく、父方からも母方からも天皇の血を受けており、そのことが「両流を内外にうけ」と記されている。また、これまた欽明と同じく、「正統」として数えられているのは、母方の皇統ではなく、父方の皇統である。
 以上の後三条天皇に関わる記載から指摘できるのは、欽明天皇同様に父方の皇統を「正統」として数えていること、そして母方の血統を「正統」としては数えないものの、「流」として即ち皇統と見なしていることの二点である。

 

※4:『正統記』では、村上天皇より後の天皇は「○○天皇」ではなく「○○院」と表記している(例外あり)。

 

おわりに
 以上、簡単ながら、父方からも母方からも天皇の血を受け継ぐ二人の天皇についての『正統記』の記載を確認した。再三の繰り返しになるが、それらの記述から、現代の皇位継承問題、「男系」「女系」を考える上で援用できそうな議論は以下の通りである。
・父方からも母方からも天皇の血を受けている場合、父方を「正統」と数えている。
・母方からでも、祖先の天皇の「遺徳」は継承される。
・母方の血統も、「流」即ち皇統とみなされている。
 本論の記述では、意図的に「男系」「女系」というセンシティブなワードは避けたが、「父方」「母方」は「男系」「女系」と読みかえてもよいだろう。
 では、『正統記』を援用して男系主義者(今後の皇位継承権も男系の血統に限る、具体策としては旧宮家の子孫に皇族資格を取得させることを提唱)や非男系主義者(皇位継承権を女系にも認める、具体策としては内親王が結婚後も皇室に残ってその子孫にも皇位継承権を付与することを提唱)が自身の主張をするとすれば、どうなるであろうか。本記事の性質上、筆者の立場を明示するのは差し控えるが、もし私が男系主義者であれば次のように主張するだろう。
『正統記』が「正統」と見なすのは、あくまでも男系の血統である。女系の血統を受けている天皇とて、男系の血統を受けているからこそ、皇位の正統性が保障されているのである。「正統」たる「第○世」を女系ではなく男系の血統に付与しているのは、男系こそが本体であるからに他ならない。


 もし私が非男系主義者であれば、次のように主張するだろう。
『正統記』は女系の血統を「流」即ち皇統として認め、女系からも先祖の「遺徳」が継承されると見なしている。男系の血統を受けない天皇の先例はないが、女系の血統を皇統と見なすことに無理はなく、女系天皇に正統性がないとは言えない。さらに明治・大正・昭和そして平成の天皇の遺徳を女系天皇は継承しうるだろう。


 無論、以前の記事でも述べたことだが、何も現代の皇位継承問題について議論するにあたって、『正統記』の論理を援用する必要はない。しかし、『正統記』を援用した主張はしばしば見られ、なかには『正統記』の「正統」や「積善の余慶」の論理を理解しているとは思えない者もいれば、具体的な説明なしに「『正統記』を読めば、この主張(男系主義/女系を含む直系主義)が正しいことは明らか」というような粗雑な議論を展開している者もいる。自らの主張を補強するために古典を援用するからには、より深く理解したうえで援用してほしいものである。本稿がその一助になれば幸いである。