339th  邪教 | おはこの「大切なことは唯ひとつ」

おはこの「大切なことは唯ひとつ」

人は何のために生まれてくるのか。
そして、何のために生きるのか。
10数年ほど前のある日、僕はこの人生最大のテーマに対する一つの答えを見つけることができました。
「大切なことは唯ひとつ」だったのです。

阪神大震災のあった年に、あのテロ事件があってから、宗教は犯罪のように言われるようになりました。

テロも殺人も肯定されるはずがありませんが、特定の宗教団体によって、宗教そのものが否定されるようになってしまったのは、とても不幸なことでした。

人は霊的生命体であり、物質界で必死になって生きながらも、霊的進歩向上を目指さなければ、わざわざ地上に再生された意味がなくなってしまうからです。

人々の日々の生活に溶け込んでいる一部の伝統的な宗教以外は、全て邪教と言われ、世間からつまはじきにされました。

そこで、霊的な感性を持ち、団体を作ろう、宗教的な活動をしようとする方々は、宗教という言葉を封印して、スピリチャルとかヒーリングとかパワーなんたらとかいう表現を使うようになりました。

しかし、今でも正面から宗教団体だと主張されるところもあり、名前を変えていても明らかに宗教団体だと言えるようなところもあることから、伝統的な宗教以外は全て邪教だという風潮が残っています。

家族が新興宗教に関心を持とうものなら、大騒ぎをして、何とか引き離そうとされる方もまだまだ多いようです。


僕は、いかなる宗教団体であっても、法律に触れるとか、周囲に著しい迷惑をかけるとか、社会常識上、問題があるとかされるところでなければ、不当な迫害を受けることには疑問を感じます。 

宗教法人になると、税制上の優遇措置があり、それを単に商売や詐欺の道具として使う人がいることも状況を悪くしていると思いますが、そのことはいつものように莫大な票とお金をもらっている政治家たちが、タブーとして法律改正には絶対に踏み切らないために、変わることはないでしょう。

だからこそ、不当な迫害には疑問を感じますが、そうならざるを得ない状況もよく分かります。

しかし、どんなに世間から邪教と言われても、本当に何かを貴いと信じ、一生その信仰を貫こうとされる方々は素晴らしいと思います。

確かに、霊魂学を信じ、霊魂学を世間に主張しようとすれば、他の宗教団体やスピリチャルなんとかと、対立せざるを得ない部分が必ず生じます。

1000の主張があり、その中に1つだけ事実があれば、他の999は事実ではないのですから、当然、いかなる宗教的な主張も他のそれとは矛盾するので、他を否定せざるを得ないのです。

そうであっても、僕は、そのような違う主張をされる方々が、互いに攻撃し合って、必要の無い軋轢は生むべきではないと思っています。

僕は○○を信じている、私は××が事実だと思う、そのように、個人個人が己の信じた道を貫き通せば良いだけだと思うのです。


さて、本日のブログを読まれて何かを感じられた方は、是非、今日からすぐに始められる霊的トレーニング を実践して頂き、わかりやすい霊魂学霊を知るために 霊魂イエス ムーの大神人 弁慶と弟子 などをご覧になって頂ければと存じます。


僕は、自分の知る限りでは霊魂学が唯一事実を語っていると信じ、神伝の法以外に人が救われる方法はないと確信していますし、日々の霊的トレーニング や年に何回かあるトオゥ・ライ・シェイ(霊的集会)によって、それを実感しています。

しかし、他の宗教に干渉するつもりは全くありませんし、真剣に何かを信じて、それを貫こうとされる団体であれば、邪教などと呼ばれる言われはないと思っています。

確かに、事実上、未熟な霊魂によってコントロールされている団体もあるかも知れませんが、それはそれで、ご本人が自由意思で選ばれたのであって、しかも社会に迷惑をかけているのでなければ、邪教など言われて世間から石を投げられることはおかしいと思うのです。

もちろん、僕は、霊魂学の学徒の立場から、出来れば事実を知って、真実を目指して欲しい、せめてご自身の守護霊や指導霊とつながって欲しいとは思ってはいますが、ご本人たちからすれば大きなおせっかいであり、一般論としては、このようなブログで発言をさせて頂いておりますが、個別具体的には一切関与することはありません。

もし、不幸にも一方的に攻撃されてしまったら、与えられた選択肢は物質的にも霊的にも害が及ばないようただ守るだけです。


唯物論はどうしようもありません。

それは霊的には完全な退化を意味するからです。

霊魂というのは、常に霊的進歩向上を目指し、少しでも神に近づくことが本質のようです。

霊的な退化は、霊魂としての本質を否定することを意味します。

邪教と呼ばれようが、世間から石を投げられようが、信仰心を貫かれるのであれば、霊的に進歩向上する可能性はあるようです。

そのご努力が、より正しければ、その分だけ進歩の度合いも大きくなるのでしょうが、ほんの少しの進歩であっても、退化することに比べれば、ずっとずっと素晴らしいと言えるでしょう。

霊魂としての本質には合致しているのですから。

僕は、日々霊的トレーニング を実践する霊的修行者として、己が確信するものがあり、実感するものがあるから、あなたに霊魂学を薦めているに過ぎないのです。


求めよさらば与えられん。信じよさらば救われん。汝の神を愛せよ。


毎日、修行をしながら、いつまでも、求め続けなければならない、迷うことなく信じ続けなければならない、自分自身の神を愛さなければならないと強く感じています。

地上の人間である僕が、完全になることなどあり得ませんが、それでも神を求め、神を目指し続けなければ、霊的進歩向上は止まってしまうと思うからです。

未熟であっても目指す、未熟であるからこそ目指す、いつまでたっても山の頂上は見えませんが、目指し続けなければ、絶対に到達することは出来ません。

0.0000001%の可能性で登れるか、奈落の底に落ちるか。

霊的修行者であることを全うするために、肉の命はもちろんのこと、霊的生命体としての存在そのもの、霊的生命体としての他界後の本物の幸せ、そんなものはとうの昔に捨てて、神霊やキリストに誓ってしまっています。

神霊に誓いを立てるという、してはいけないことをしてしまった以上、後は落ちるだけなのかも知れません。それでも目指すしかないのです。

だからこそ、世間の人々からは、やっぱり邪教なんだと後ろ指差されてしまうのでしょう。


大切なことは唯ひとつ・・・・・。


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